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今月の「生きるヒント」

シリーズ 人生のチャレンジ 移住を選んだ人たち 第2回《前編》デザイナー 迫田司さん

11軒の集落で、米をつくって薪を割るデザイナー。「半径5㎞を自慢したくてデザインしてる」

後編はこちら

プロフィール
さこだ・つかさ/熊本県出身。サコダデザイン株式会社 代表取締役。大学で美術を学び上京、大手印刷会社に入社。3年間の勤務の間に四万十川でのカヌーに魅せられ、高知県幡多郡西土佐村(現・四万十市)に移住を決意。その2年後にサコダデザインを設立する。やがて順調に依頼が入るようになるも、デザインの力を第一次産業再生のために使うと決心し、収入の糧となっていた仕事を捨てて振り出しに戻る。紆余曲折を経て、現在は、地域に根差したデザインで注目の存在に。活動は従来のデザインの枠にとらわれず、2014年には地元の住民たちを教授とする「 西ヶ方大学 」を始動する。
迫田司さんのじぶん年表

最初はただ、カヌーが好きで

― 迫田さんが四万十に来たきっかけはカヌーだったとお聞きしました。

迫田さん :そうそう、東京本社の大手印刷会社でアートディレクターをしていた3年間のうち、後の2年間は福岡や広島が勤務地でした。そこから毎月四万十に通ったんですよ。もう夢中でね。

― カヌー好きが高じて移住を決心したのですか。思い切りましたね。

迫田さん :カヌー教室の経営者が誘ってくれたんですよ。「こっちに来てこの仕事を手伝ってくれないか?」って。それでホイホイと仕事を辞めて来たら「なんだ、ほんとに来たのか」って言うんですよ。地元の個人経営ですし、きちんと人を雇うような余裕はなかったみたいです。でももう仕方がないから、その教室で、日雇いみたいなアルバイト。毎日毎日カヌーに乗ってお客さんを教える日々でした。

四万十川でカヌー教室三昧の日々を送った時代の思い出の場所。長生の沈下橋

― 大好きだったカヌーで生活ができた…?

迫田さん :いや、それがもうとんでもなくカヌー三昧ならぬカヌー教室三昧。年間600人に教えて、ずっと川の上。当時、四万十をカヌーで走行した距離では、間違いなく僕が世界一、ギネス記録ですよ。さらにはお客さんに食事を出す係まで兼務しててんてこ舞い。毎日ひたすらそんな感じで働いていると、カヌーが好きだからうんぬんでもなくなってきてしまった。このまま中途半端に雇われているのもどうなのかと僕なりに不安になって、2年で見切りをつけました。

意地で住み続けた田舎の価値に気づく

― それで、もともとやっていたデザイン関係の仕事をしようと会社を立ち上げたんですね。東京に戻ろうとは思わなかったのですか。

迫田さん :四万十に出てくるときは、デザインを仕事にしようとはまったく考えてなかったんです。ただ、結果としてカヌーへの夢に破れたので(笑)。東京に戻らなかったのは、意地ですね。いろんなことをいう人たちに啖呵切って田舎に来たのに、カッコつかないじゃないですか。

サコダデザインの事務所にて。テーブルの上に並ぶのは手がけたパッケージなど

― ですが、20年近く前に、村でデザイン事務所を成り立たせていくのは相当難しそうです。

迫田さん :最初の仕事は隣の家に住んでいるおじさんが採ったハチミツの瓶のラベルでした。「お前、絵が描けるんだろ」って、だから描いてくれって頼まれた(笑)。どんなラベルにしようかと思案してるとき、そのおじさんが、ハチミツ用にその辺の竹を削ってちゃちゃっとヘラをつくるので驚いたら、そのヘラを瓶に結わえるための縄もあっという間にこしらえた。なんなんだ、すごいじゃないか!と感動して、ヘラもつけた形で商品にすることにしました。それが、日本パッケージ大賞に入選したんですよ。

― おじさんとのコラボが!

迫田さん :そう。そのときにもらった報酬はハチミツ6瓶。そこから卵に味噌にお米と、ギャラが現物支給の仕事が続きました(笑)。あちらにはデザインの概念がないわけですが、自分としては、デザインと食べ物の物々交換ですよね。でもそのとき思ったんですよ。「田舎にはなんにもないっていうけど、あるじゃないか」って。隣のおじさんのハチミツだってね、在来種の日本みつばちの集めた地蜜で貴重品なんですよ。地元では、特段価値が認められていなかった。

貧乏した!

― すてきですね。でも、しばらくは物々交換で食べていたということですか。

迫田さん :10年くらいは現金収入で家計を支えられなかったから、今となってはどうやって生活していたのかもわかんないです。冬に、使えるお金が1ヵ月7,000円しかなかったこともありましたからね。風呂釜がこわれても修理に出せず、やかんでお湯を沸かして水とまぜてお風呂にしていた時期もありました。幸い田舎では、ちょっと農作業やらを手伝いに行くと、びっくりするくらい野菜がもらえたりするから、そんなので暮らしていたのでしょうね。妻には役場の臨時職員になってもらいましたけど。

― 苦労を共にしてくれた奥様も、すごいですね。

迫田さん :そうですよね。デザインの仕事が、近隣の、ここよりも都会の町から入るようになって、一時的に家計が潤った時期があったんです。そんなときに、めぐり合わせから自分の仕事を見つめなおすようになりました。そして気づいたんですよね。なにか違うんじゃないかと。結果、隣のおじさんのハチミツみたいに、「小さいけれど正しいもの」にしぼった、第一次産業のデザイナーになろうと心に決めました。お金になっていた仕事を全部辞めて…、あのときは、妻を泣かせちゃいました。