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2012年4月号 人に優しい「食」のススメ―「スローフード」という生き方 最終回 伝統的な発酵食品は日本を代表するスローフード

家族と食卓を囲みながら、ゆったりとした時間を過ごし地域のことにも思いをはせるーー。そんな、あたりまえの「豊かな暮らし」を求める人が増えています。「食の安全」「地産地消」「スローフード」などのキーワードがしばしばメディアを賑わすのも、そうした表れの1つ。このシリーズでは、「食」と「暮らし」を巡って議論されている、古くて新しい豊かさと幸福、持続可能なライフスタイルとは何か、を探っていきます。

本シリーズ最終回にご登場いただくのは、日本酒業界をリードする月桂冠の総合研究所長、秦洋二さん。食品の3つの機能をバランスよく備えた日本の代表的なスローフード、発酵食品について、日本の食文化や歴史的な経緯なども含め、幅広い観点からうかがいます。

 

醸造・発酵技術をベースに幅広い研究活動を展開

泰さんは月桂冠総合研究所の所長という要職に加え、公益社団法人日本生物工学会の理事や同学会スローフード微生物工学研究部会の部会長も務めていらっしゃいます。

泰 月桂冠は創業以来、370年以上の歴史を持つ会社で、総合研究所も業界に先駆けて100年以上前、1909年に設立されました。当研究所の特徴は、「健をめざし、酒を科学して、快を創る」というコーポレートブランドコンセプトのもと、長年にわたって蓄積してきた醸造・発酵の技術をベースに基盤研究から応用研究まで、幅広い研究活動を展開している点にあります。

  具体的には、より品質の高い日本酒を安定して醸造できる製法や、業界初となる糖質ゼロの日本酒の開発といった成果のほか、健康によい機能性食品、お米由来の基礎化粧品、スーパー酵母によるバイオエタノール生産技術の開発など、多様な分野で成果を生み出してきました。

  一方、日本生物工学会のスローフード微生物工学研究部会は、醸造や発酵に関わる微生物を分子生物学的な手法で研究している研究者間で情報を交換することにより、新たな産業の創出や健康維持・病気予防などの分野で貢献することを目的に設置された部会です。また、同じ醸造・発酵の分野でも、たとえば酒と味噌・醤油とではそれぞれ管轄官庁も学会も違うため、スローフードというくくりでひとまとめにして互いの交流を深め、情報を共有しようというねらいもあります。

  部会の主な活動としては、醸造・発酵食品の機能性に関する研究成果をデータベースにまとめてホームページ上で公開し、年1回更新作業を行っています。

右写真/月桂冠総合研究所の前身、旧・大倉酒造研究所(近代化産業遺産)。酒造りに科学的な管理技術を取り入れる必要を感じた11代目当主・大倉恒吉により1909年(明治42年)に設立され、品質や酒造技術の向上につながる成果を上げてきた。

 

食品の3つの機能をバランスよく備えた発酵食品

スローフード微生物工学研究部会のホームページでは、伝統的な発酵食品は日本を代表するスローフードと紹介されています。その理由は何ですか?

泰 発酵食品の原料の多くは、そのままでも食べられます。にもかかわらず、わざわざ手間と時間をかけて発酵させるのは、それに見合うメリットが加わるからです。

  食品には、「栄養になる」「美味しい」「健康によい」という3つの機能があります。このうち一次機能の「栄養になる」という点に関しては、たとえば納豆のように発酵させることでタンパク質が分解され、栄養分を吸収しやすくなるというメリットがあります。また、納豆特有の糸引きや匂いで食欲を感じる方たちがいますので、二次機能の「美味しい」というメリットもあります。つまり原料を発酵させることで栄養価が高くなり、より美味しくなるというわけです。

  さらに近年は、三次機能の「健康によい」というメリットについても研究が進み、予防効果のある成分がいろいろと見つかっています。スローフード微生物工学研究部会の主な目的も、この三次機能の成果をまとめることにあります。

  伝統的な発酵食品は、「食の安全・安心」という面でも優れています。そもそも食の安全性は、長年食べ続けなければわかりません。たとえば私たち日本人が日常的に食べている食品の多くは、古くても明治維新以降のもので、新しいところでは太平洋戦争後に入ってきたものがほとんどです。このように食の国際化が急速に進む中で食の安全性を見きわめるのは、とても難しいことです。その点、1つの民族が100年以上にわたって食べ続けてきた伝統的な食品は、非常に安全性が高いといえます。というのも、栄養にならないものや体に悪いものは、長い年月の中で淘汰されてきたからです。

  伝統的な発酵食品に共通しているのは、毎日、無理なく、しかも美味しく食べられるという点です。たとえば何かの栄養素を選択的に摂取したい場合、いまではサプリメントを利用するという方法もありますが、食品の3つの機能をバランスよく備えた発酵食品なら、無理なく、美味しく摂取することができます。そうした点が日本を代表するスローフードといわれるゆえんです。

 

発酵食品の浸透・発展を促したカビの文化と粒の文化

発酵食品が豊富なのは、日本をはじめとする東アジアという印象がありますが?

泰 確かに東アジアは、ヨーロッパなどに比べ、非常に多くの発酵食品が作られている地域です。その理由の1つは、気候が湿潤な東アジアにはカビの文化があり、カビを発生させて原料を分解し、加工するという技術が古くから浸透しているからです。

  もう1つの理由は、ヨーロッパが「粉」の文化であるのに対し、東アジアは「粒」の文化であるという点です。ヨーロッパの主要な穀物は小麦で、果皮と中身をきれいに分離するのが難しいため、一緒にすりつぶして粉にします。これに対して東アジアの主要な穀物は米で、粒と粒の間に適度な隙間ができる米は通気性がよく、微生物が生存しやすい環境が保たれるため、カビがよく発生します。

  さらに、ヨーロッパと東アジアとでは、文化や意識の違いもあります。ヨーロッパでは、カビといえばまずばい菌、食物を汚染するものと考えられ、人間に対して有害なものと捉えられています。これに対して東アジアでは、カビの生えた米が実は甘くなっているとか、美味しくなっていることに気づき、良いカビを選抜して、それを積極的に食品の加工に利用するようになりました。微生物は上手く利用すれば「醗酵」、利用できなければ「腐敗」となることと同様で、その背景には文化や意識の違いがあります。

 

理論の前に作り方が確立されていた醸造・発酵

醸造・発酵は、非常にデリケートで奥の深い技術分野だと聞きました。

泰 一般のものづくり、たとえばロケットを作る際には、みんなで「こうしたらよく飛ぶんじゃないだろうか」と理屈を積み重ねながら作り上げていきます。ところが醸造・発酵の場合は、理屈や理論ができる前にまず作り方が確立されていました。

  昔の人たちは、理屈はわからないながらも温めたり、冷やしたり、混ぜたりと、試行錯誤を繰り返しながら経験則を積み上げ、最適な作り方を確立してきたのです。そのメカニズムが20世紀になってようやく科学的に解明され、「なるほど杜氏さんや職人さんがやっていることにはこういう技術的な裏付けがあったのか」とわかりました。

  その一例が低温殺菌法です。一般にはフランスの化学者・細菌学者のパスツールが1860年代に発明した殺菌法(パスチャライゼーション)が知られていますが、日本酒造りの世界ではその400年前に、65℃程度で保存すれば長持ちすることをすでに発見していました。日本では、経験則としての殺菌方法は確立されていましたが、その科学的な理屈を証明することができていませんでした。その背景には、島国の日本ではそれほど理屈にこだわらず、情緒的に説明しても相手に理解してもらえるのに対し、多民族のヨーロッパでは理論的に説明しないと納得してもらえないという事情があります。

  一般の工業製品では、高い精度で同じ製品を再現よく作ることが重要で、原材料や製造方法が一定になるよう厳しく管理されます。これに対し、基本的に微生物を使って醸造する日本酒は、まったく同じ原料を同じ温度で発酵させても、5本仕込めば5本とも仕上がりが違います。また、現実的には原料も毎年違います。そこで重要になってくるのが、発酵の状態を見ながら個別に行う微妙な調整、チューニングです。

  もちろん技術が発達したいまは8~9割まで理論で作れますが、残りの1~2割に関してはどうしても経験と勘がものをいいます。そこが醸造・発酵の技術的な難しさであり、面白さでもあります。

 

月桂冠大倉記念館に隣接する白壁土蔵の酒造蔵「内蔵(うちぐら)」(1906年建造)には、昔ながらの酒造りを行うミニプラント「月桂冠酒香房(さけこうぼう)」がある。左から、米を蒸すための「甑(こしき)」、麹菌を蒸した米に生やして育てる「麹室(こうじむろ)」、酒母・麹・水・蒸米を桶に仕込み低温発酵させる「発酵室」、発酵を終え熟成したもろみを圧搾して新酒と酒粕に分ける「槽(ふね)」。

 

長年の蓄積からいかに知見を見いだし、普遍化するか

日本の「食」の状況と、醸造・発酵技術の今後についてどうお考えですか?

泰 日本の醸造・発酵技術は、世界でも常にトップクラスの水準にあります。また、日本の発酵食品は、なれずしやくさやのように独特の香りを発するものもありますが、総体的にとても風味がよく、上品です。というのも、アジアの中でも日本人は、特に匂いに敏感だからです。

  その結果、日本の発酵食品は、いまでは広く海外でも支持されています。たとえばアメリカでは、醤油や日本酒などがすっかり定着し、当社の月桂冠ブランドは年率5~6%の伸びを示しています。また、それにともなって日本食のよさが認知され、日本の食文化そのものに対する理解も深まっています。その一方で、少し残念なのは、本家の日本では日本食のよさが必ずしも十分認知されていないという点で、ジレンマを感じています。

  醸造・発酵技術は、日本人が長年かけて創り出してきた貴重な技術です。また、日本は醸造・発酵のアイデアもたくさん持っています。そこで私たちは、その技術をさらに追究してよりよい酒を醸造すると同時に、豊富な技術ノウハウを活かして新しいものを創っていきたいと考えています。

  たとえば当社の基礎化粧品は、杜氏さんや職人さんの肌がつるつるしていて、手が白いという、経験則にもとづいた知見がベースになっています。そうした伝承は、10年程度の経験では生まれません。何百年も酒造りを続けて初めて、杜氏さんの手は白いという信頼感が生まれるのです。また、今後は食品の分野でも、多様な発酵技術が進化したり、融合することで、「健康によい」という三次機能がますます高まっていきます。

  長年にわたって蓄積されてきたノウハウの中からヒントとなる知見を見いだし、それらを科学的に解明して、いかに普遍的なものへと発展させていくか。次世代への技術の伝承も含めて、それを実現するのが私たちの世代の役割だと考えています。

 

秦 洋二(はた ようじ)


 

月桂冠株式会社 取締役 総合研究所長 兼 醸造部長

1983年に月桂冠株式会社に入社。農学博士。総合研究所のトップとして幅広い研究活動を牽引するかたわら、公益社団法人日本生物工学会理事、同学会スローフード微生物工学研究部会長、京都大学非常勤講師、奈良女子大学客員教授を務めるなど、醸造・発酵技術の発展と後継者の育成にも尽力している。日本生物工学会の江田賞をはじめ、日本食品科学工学会、日本糖質学会、日本醸造協会など、数多くの学会賞を受賞。

月桂冠株式会社


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