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わたしのふるさと

わたしのふるさと What is FURUSATO for you? わたしのふるさと What is FURUSATO for you?

誰しも生まれた地、育った地があります。ずっとその地で過ごす人、進学や就職を機に離れる人、転々とする人。
縁ある土地とのつき合い方は人それぞれです。「第二のふるさと」「心のふるさと」という言葉があるように、「ふるさと」は、生まれ育った地とも限らず、もしかすると、物理的な土地とすら結びつかない、その人にとって大切ななにかがある場所とも定義できるかもしれません。
あなたにとって「ふるさと」は、どんなものでしょう。

13岩木勝志さん

青森県十和田町(現十和田市)生まれ、
十和田町育ち→北海道、関東を行き来→十和田市在住

青森県十和田町(現十和田市)生まれ、十和田町育ち→北海道、関東を行き来→十和田市在住

岩木勝志(いわき・かつし)

有限会社岩木建設 代表取締役

1954年青森県十和田町(現十和田市)で生まれ、十和田町育ち。大工だった先代である父親が弟子を寝泊まりさせる家庭で育ち、中学卒業後は大工修行に出される。厳しい修行を終え21歳から父親と一緒に働き始め、仕事のない冬場は関東方面に出稼ぎに。1999年に父親が他界すると、下請けとしてやってきた会社の事業を転換すべく尽力。県産の銘木をはじめとする国産材をふんだんに使い、いまでは少なくなった本当の大工仕事による家づくりを開始。苦労の末、青森産木造住宅コンテストで複数回受賞を果たす地域密着企業に。趣味は愛犬とのわらび採り。

岩木建設公式サイト「いわ木の家」

中学卒業後、大工の修行に

中学を卒業すると、大工だった親父に言われるがまま、地元の工務店に大工の修行に出ました。進学という選択の余地はありませんでしたね。同級生の進路は、進学と就職、半々くらいだったかな。木でなにかをつくることは好きでした。器用じゃないので細かい仕事は向いてませんが、「こうやってつくればいい」という、勘どころは自然と心得ていたようです。中学のときから、鳩の小屋をつくったりしてました。

修行時代は住み込みで、休みは月一回、一年目の月給は7,350円、二年目が10,000円、三年目で15,000円でした。パンが30円、銭湯が50円くらいの時代です。東京では100,000円くらいもらえるとも聞いていたのですが、自分は行こうと思いませんでした。5年間の修行を終えてからは、親父と一緒に働きながら、冬場は関東方面に出稼ぎに出かける生活が始まりました。親父との仕事では、休日もなく朝から晩まで働いて、お小遣い程度のお金をもらってました。

一本気だった父親。とにかく休まない人だった

中学校を卒業し、弟子入りしたばかりのころの、なんとも初々しい岩木さん。

親父は、雨が降ろうが槍が降ろうが休まない人でした。小学校にも通えず働いた人でしたから、もう、ずーっと働いてましたよね。それだけではなく、ザーザー降りでもカッパ一枚着ず、冬に靴下を履こうともせず、りんごは手で割る(笑)。あれはなんなんでしょうかね、一本気というのでしょうか。あの時代の男らしさだったのかな。なにより曲がったことが大嫌いな、そんな人でした。後を継ぐ私には、「一人前になる前に金儲けするなよ」とよく言って聞かせたものです。

出稼ぎで、千葉や茨城、それから北海道にも行きましたけど、帰る場所は十和田だと、疑ったことはありませんでしたね。ここがふるさとだと思ってて、ほかの土地にい続けたいという発想は持たなかった。ずっとここにいるものだという感覚でした。「これが自分の仕事だ」という自覚も、次第に芽生えてきたころです。月収100,000円を求めて東京に行った人たちのほとんどは、大工として残っていません。当時はそれなりに景気が良くやってても、棟梁が呑んべえで朝起きてこないような工務店も、いつしか潰れちゃいましたね。親父は正しかったのかなと、振り返って思います。

本物の家づくりがしたくて

10年の歳月を経てもなお、入った瞬間木の香りがするモデルハウス。無垢材の床の心地よい感触は忘れられない。

大工は職人ですから、自分らが若かったころは、食いっぱぐれのない、「うちの娘を嫁に」と言われるような職業だったんですよ。だから、大工になれば車が買えて、彼女もできると思ってましたし(笑)、なんとなくそれをモチベーションにできましたよね。仕事はきついし、上下関係は厳しいし、基本一人でやる仕事だから協調性に欠ける人も多かったけど、腕を磨いて胸を張れる職業ではあったんです。これが自分らの前の世代になると、大工も兼業で、馬の世話も田植えも子守りもしてた。いまの時代はどうかというと、工法や材料が変わったことで、本当の大工仕事がなくなってきています。多くの現場では、決まったことだけしてれば良くて、自分なりの工夫の機会も減っています。以前ほど選ばれる職業でもなくなっています。残念ですよね。

そういう自分たちも、会社としてはずっと、ハウスメーカーの下請け専門みたいな感じで、なんとかやってました。集成材とか塩ビみたいな新建材を使う、ほとんど組み立てでできるような住宅が一般的になっていたので、いつかはしっかりと「芯の入った」木を使って、本物の家づくりがしたいと思い続けていました。親父が亡くなったのが1999年。親父に似て職人気質で、営業はぜんぜんダメだった自分が会社を下請けから脱却させ軌道に乗せるまでは、妻である専務と一緒に大変な苦労をしました。いまはこうして地元で、ずっとつくりたいと思い描いてきた家をつくらせてもらって、お客さんに満足してもらって、県の住宅コンテストで受賞までさせてもらって、ありがたいですよね。これからは地元の工務店仲間同士がもっと活発に交流してお互いに良いものを吸収しながら視野を広げ、地域全体で質の向上をはかっていけたらいいなと考えているところです。本当の大工仕事ができる職人を育てたいし、十和田を、職人の町のようにできたらいいなぁって思ってます。

国産材を使い、十和田で商売をして生きてゆく

専務である奥さんと事務を担う娘さんとモデルハウスの前で。息子さんも北海道の同業者の会社に就職して学び中。

十和田にはこれといって文化はないけれど、八甲田山や十和田湖があるし、特に自然には愛着がありますね。自分もそうですが、温厚な人が多いと思います。ほかに好きな場所ですか?こうした北国で生まれ育ったからか、南の島には憧れがあるのですけどね、仮に生まれ変わって南の島の人間になったとしてもやっぱり、木にかかわる仕事がしたいですかね。山師(林業を担う人)とかいいですね。木が好きなんでね。

うちでつくる家は、土台に必ずヒバを使います。主な産地は津軽や下北半島ですね。杉は樹齢40年で使えますが、ヒバは150年かかるんですよ。機能性ピカイチの、貴重な木です。化粧材には同じ東北の秋田杉を使っています。あとは、床にカラマツとか、柱にはクリとか、お客さんの好みも聞きながら適材適所。国産の優れた木で家を建て、「いわ木の家」を名乗らせるなら、木のことをもっと知らないといけないと思い学ぶうちに、どんどん木が好きになりました。建材になる国産材は80種ほどありまして、色も質感もさまざまです。最初、建具をつくってみたら楽しくなっちゃってね。自分は追求しすぎるクセがあるんです。やりすぎると経営的にはよくないので怒られますね(笑)。それでも手間を惜しまずやるときはやりますよ。自分らの仕事って、そういう仕事なんですよ。

大手と違って、うちはここでしか仕事ができない。ここでやってゆくと決めています。先代の評判が悪いと次の代まで苦労しますから、そのためにもしっかりやらないと。家というのは、いくら丁寧につくっても、必ずひとつやふたつは不具合が出てくるものなんです。そういうものへの対応をきちんとやって、お客さんと長いおつき合いをする。ひとり暮らしの高齢者が多くなってきましたから、冬はうちの若い衆に、朝15分くらい、そういうお宅の除雪を手伝ってもらったりもしています。家を建てるだけなく、住まいや生活にかかわることでお役に立てるようでありたいんですよ。それが、地元で商売をして生きてゆくってことなんじゃないかな。

※青森ヒバ。別名アスナロ。秋田スギ、木曽ヒノキと並び、日本三大美林に数えられる青森自慢の固有種。アロマ効果、消臭、抗菌のほか、防虫効果が認められ、白アリ対策で土台に使用するのに最適。

ふるさとのお気に入り

十和田市

by岩木勝志さん

  • 八甲田山

    ずっとあっていつも見えてるのがいい。この地域を支えている気がします。わらび採りが大好きで、季節になると出勤前に熊よけの犬を連れて、一日一カゴ採ってくるんですよ。岩魚(いわな)とか山女(やまめ)の稚魚を買ってきて、山の水を引いた池に放って、育てて食べたりもします。麓の恵みですよね。

編集後記

本当の大工さんによる本物の家づくり。岩木さんの会社のつくる家に、本能に訴えるような深い安心感があるのは、良い材料と良い仕事のたまものなのだと、足を踏み入れれば自然とわかります。売り上げや会社を大きくしたいという動機ではなく、ただただこんな家をつくりたくて頑張ってこられたのですね。八甲田山を望むまちで、県産材のヒバを土台に用いた家。記事中では割愛させてもらいましたが、木のお話になると楽しげで、急に饒舌になる岩木さん。「地元で商売をして生きてゆく」。言葉以上に地に足がついた印象を受けました。

(取材・文:小林奈穂子)

『わたしのふるさと』第14回は、地元びいき 代表の和田富士子さんのストーリーをお届けします。11月15日公開予定です。お楽しみに!