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緊急連載:みんなの老後を考える

2010年10月 第3回 サービス提供者と利用者側双方が大変さを理解した上で、介護にあたる ノンフィクションライター 土本亜理子さん

介護の第一線を担っているのはホームヘルパーなどの介護職の人たちです。連載最終回の今回は医療・介護分野の取材を行う中で、自らホームヘルパーとなり、訪問介護に携わってきた、ノンフィクションライター 土本 亜理子さんに、介護現場の様子や問題点についてお聞きました。

 

介護現場へ取材がきっかけで自分も訪問介護に携わる

土本さんは7年前にヘルパー資格を取って、その後介護福祉士になり、訪問介護をしながら、ライターの仕事をしています。その中で、感じていることをお聞かせ下さい。

医療や介護の現場へ取材に行くと、スタッフの方からよく「患者さんの笑顔が励みです」という言葉を聞きます。できればもうちょっと違う、いろいろな表現で働く人たちの実感をうかがいたいのですが、聞いて行くと、やっぱり行き着くのが、「笑顔が見たくて」というお話になります。しかし取材者には、残念ながら「笑顔」という言葉のリアリティーがもう一つ掴めない。そこで「本当はどうなのだろう」と考えて、介護の仕事を始めました。自分でやってみると、なるほど、利用者さんの笑顔に励まされるっていうのは、本当なんですよね。介護が必要と言っても、1人ひとり、そのニーズは異なります。ですが、人の手による支えを得て、不自由を抱える前にやれていた生活により近い暮らしができた時、その方になんとも素敵な笑顔が浮かぶのです。

  介護を始めて気づいたのは、「おいしく食べて、気持ちよく出せる」「朝すっきり目覚め、夜しっかり寝られる」、この2つがきちんとできることの大切さです。食事と排泄と睡眠が満たされ、整ったときに、生活のリズムができます。介護でやるべきことはたくさんありますが、これらができれば、介護を受ける人に笑顔が出る。「快」と「不快」という言葉がありますが、「快」を増やして「不快」を減らすと、自然に笑みが浮かぶ。私が取材者として何度も聞いた、「笑顔が見たくて」という言葉の真意はここにあったんだなと、自分で介護に携わってみてようやくわかってきた、というのが今でしょうか。

 

限られた時間で全てをやるヘルパーは大変な頭脳労働

限られた時間の中で仕事をする訪問介護はとても大変ではないでしょうか。

介護保険制度の下で、利用者ごとに立てられたケアプランにもとづいて派遣されるので、制限時間があります。例えば、1時間半と設定されると、認知症で食事も着替えもできない人であれば、その中で食事や排せつの介助や着替えなど身体介護と、調理や掃除などの生活援助をします。お宅に伺うと、挨拶して、冷蔵庫を開け、何があるかを見て、作る料理を一瞬の内に考えます。そしてお風呂を掃除して、入浴できるようなムード作りをしながら、台所で料理の準備をして、鍋をかけている間に洗濯をして、掃除をします。その上で、乾いた洗濯物を取り込み、料理を作り、お風呂が沸いたら、介助しながら入ってもらって、次は食事のお手伝い。食後は歯磨きや服薬の準備をしながら、ふとんを敷いて、終わったら、「お休みなさい」と言って帰る。これら全てを1時間半でやるのですから、とてもハードな肉体労働であり、かなりの頭脳労働です。とくに認知症の方のケアは、私たちの言葉一つ、態度一つがその場の展開を大きく左右する、実に頭を使う仕事だと思います。介護を、どの職業から転職してもできる、誰にでもできる仕事だと安易に考えている政治家の発言を聞くたびに、違うなあ……と思います。介護職には適正があります。例えば訪問介護では、利用者さんの家という相手の土俵で、限られた時間に求められるケアをすべて行う。アクシデントや難問珍問が続出する現場で、どうやって波風立てずに利用者さんの日常を支えるか。そこには想像力や判断力、そしていろいろな工夫も必要です。

ヘルパーの人は皆、同じように工夫してやっているのですか。

皆さん、試行錯誤を繰り返し、考えながらやっていると思います。ある利用者のお宅では、私の訪問と同じ時間帯に、別の会社の入浴チームが来ます。私が食事を作っている間に、彼らは部屋にバスタブを置き、お風呂の準備をします。ところが、認知症を抱えたおばあさんはお風呂に入るのを嫌がり、「今日はいい」と拒否される。それに対して、どうするのかなと思っていたら、やおら部屋からオカリナのきれいな音色が聞こえてくるではないですか。入浴チームの若い人たちが、利用者さんにリラックスしてもらうために一計をめぐらしたんですね。ときには合唱も聞こえます。最初は怪訝な顔をされている利用者さんも、汗をかきながら笛を吹いている若者に見とれて、いつしか湯船の中へ。お風呂に入って、すっかりきれいになったおばあさんがベッドに戻られたら、私がご飯を出す。そんな形で他の人たちの介護を見て、なかなかやるなあと、驚かされることもあります。

 

「自分がして欲しいと思うこと」をするのが尊厳を大切にした介護

人の尊厳の大切さがいわれますが、尊厳を大切にする介護とは何なのでしょうか。

私がかつて取材した緩和ケア病棟(ホスピス)をもつ診療所の院長は、新しく入ったスタッフに「どんなことでも、自分のこととして考えて」と、よく言っていました。ナースコールしているのに来ないとか、痛い体勢のままで置かれるとか、「自分が患者だったら、どうだろう」と考えてみるということです。介護の現場も同じです。寝ている人が上から見下ろされて話をされたら、いやです。そういう時は座って、話をします。また、噛んだり、飲み込んだりできなくなった人に、食事をミキサーにかけて作るミキサー食というものがあります。ところが、料理をまとめてミキサーにかけると、味は混ざってしまい、何の料理だか分からなくなってしまいます。また、色も茶色になって、見た目もとてもまずそうです。そうした時は食材ごとに、ミキサーではなく、裏ごしをして、味と色で何の料理だかを分かるようにし、形も丸いお団子にしたり、会席料理の一品のように飾ったりと工夫して食べていただきます。「自分だったら、イヤだと思うことはしない。して欲しいことをする」。「人の尊厳を大切に」という表現は、私には今ひとつ手が届かないというか、うまく使えないのですが、これが医療や介護の基本かなと思っています。

  そう考えた時に、介護保険制度の不自由さにぶつかることがしばしばあります。制度ありきで、決められたこと以外できないのは当たり前、となっていますが、それって、おかしいと思います。例えば、終日ベッドで暮らさざるを得ない人にとって、窓から見える景色が外との唯一の接点ですが、窓がくもっていれば、外は見えません。ところが窓ふきはケアプランの項目に入っておらず、やってはいけないのです。利用者にとって何が大事か。もちろん途方もないリクエストに添うことはできません。しかし良識の範囲内の支援でさえ、できないことが多い。あるいは、ケアプランにあるからといって、その日は必要がないのに提供されるケアもあります。その場のニーズによって介護職が動ける、そういう融通のきく制度になって欲しいし、制度自体がもっとひと寄りになるべきだと思います。

  介護保険はとても大事です。その制度があるおかげで、利用者は1割負担で様々な介護サービスを使えます。ところが改定される度に、どんどん使いにくいものになっているのも実情です。例えば、制度発足時は5段階だった介護認定が、要支援で2段階、要介護で5段階と計7段階になり、それぞれ利用限度額が決まっています。よく言われることですが、認知症の人の場合、軽度や中度の時ほど活動量が多く、人によっては徘徊などもあり、家族など介護する人はとても大変です。動けるという一点で認定は軽くされ、利用限度額が低くなり、使えるサービスが限られてしまう。そうした問題がたくさんあるのです。

 

ひとつの事業所で多様なサービスをする小規模多機能に注目

この8月に『認知症やひとり暮らしを支える--在宅ケア「小規模多機能」』(岩波書店)という本を出版されました。

介護が必要な人が自分の家で過ごそうとした時に、デイサービスはこの事業所、ショートステイは別のところ、訪問介護はさらに別で、3社くらい入っている。さらに、訪問診療、訪問看護などが入るというケースがよくあります。そうすると、認知症を抱えている方だと、毎日たくさんの人が出入りするので、家の中がバタバタしている状態になって、本人がとても不安定になります。入院すると、夜寝ていても看護師の巡回などで、かえって疲れるとよく言われますが、それと同じような状態になってしまうのです。

  そうした状況をなんとかできないかと考えていたら、介護保険の中に、ひとつの事業所で多様なサービスが提供できる「小規模多機能型居宅介護」という在宅ケアの制度があることを知りました。通称「小規模多機能」と言いますが、そのサービスがあれば、もっとよい状態で生活できると思われるたくさんの利用者さんの顔が浮かびました。ところが地元の市役所に聞いたら、残念なことに市内に1ヶ所もないというのです。どうして、制度はあるのに事業所がないのかと疑問に思い、取材をしてみたら、利用者にとっても事業者にとっても、この制度が使いづらい様々な問題を抱えていることを知りました。本では、そのあたりを利用者、事業者、そして自治体や研究者にも話を聞き、制度をより使い勝手の良いものにするために、何が必要なのか、現場の実感から掘り起こしたつもりです。

 

制度をシンプルにし、時代や状況に合わせて柔軟に変える

そこで浮き彫りになった介護保険制度の問題とは何なのでしょうか。

介護保険制度ができて10年、プラス面は大きいのですが、制度が複雑になり、介護の専門家が増え、介護ビジネスが広がる中で、サービスを受ける側が「介護は専門家に委ねるものだ」という意識が強くなっているように感じます。しかし、介護現場は残念ながら盤石ではありません。そのことを、介護職は肌身で感じていますが、利用者や家族にも知ってもらっていいのではないかと思います。

  介護職の賃金体系が、他の業種に比べてもとくに低いことはすでに報道されています。求人はあるのに、応募が少ない。慢性的な人材不足で施設介護も在宅介護もスタッフの確保にやっきです。そんな中で、一人の介護職にかかる負担は増えることはあっても、減りません。たとえば訪問介護の現場では、ヘルパーが風邪を引いたり、急用ができて、どうしても利用者さんのお宅に行けなくなったとき、十分なスタッフ配置になっていないので、事業所のサービス提供責任者が、電話をかけまくって代わりのヘルパーを探し、見つからなければ自ら出向くなど、必死の対応をしますが、まるで綱渡りのような、実にゆとりのない状況が常態化しています。利用者や家族は、「専門家に頼めば安心」と考えておられるのだと思いますが、舞台裏はてんやわんや、なんてこともあります。

  目の前にある問題は利用者とサービス提供者で融通し合うことなのか、そうではなく、制度として根本的に変えるべきことなのか。そこの見定めが必要だし、制度自体を良くするには、問題を抱え込まず,声をあげていかないと変わらない。いずれにしても、弱いところへのしわ寄せでなんとか困難をやり過ごす、というこれまでのあり方では持たなくなってきている、それが介護保険10年目の今ではないでしょうか。

介護現場での経験から、介護保険をどのようにしていけば、よいとお考えですか。

一番大切なのは、よりシンプルにすることだと思います。例えば、現在7段階もある要介護認定ですが、これは介護が「ちょっと必要」「中くらい」「たくさん必要」の3段階で十分ではないか、と実際に認定審査会に出ている医師から聞きました。私も同感です。そうすれば、認定に時間をかけずに済みます。ケアマネジャーも利用限度額内でなんとかおさめようとするケアプラン作りからもっと自由になれる。その代わり、利用者側も体のよいお手伝いさんとしてヘルパーを頼むのではなく、介護保険という皆で支え合う仕組みの中で、来てもらっているのだという認識をしっかり持つ必要があります。

  以前、茨城県の旧・美野里町(現在の小美玉市)で、中学生が介護を勉強し、3級ヘルパーになるという取り組みを取材したことがあります。部活や受験で猛烈に忙しい中学生が、なんとか時間を工面して、50~60時間の介護講習を受け、資格を取得する。それはとても大変なことなのですが、目が不自由で白杖を持った人に、どう声をかけたらいいかとか、段差がある道で車いすをどう押したらいいか、障害を抱えて引きこもりがちなおじいちゃん、おばあちゃんと向き合うときの気持ちの寄せ方など、じっくりと教わる。その結果、数年前ですが、旧・美野里町では人口100人に1人の割合でヘルパー資格を持った人が誕生し、介護の基本を知っていることが当たり前、という町づくりを実現させています。

  介護職には適正があると言いましたが、適正もまた教育でいかようにも変化する。知ることで、学ぶことで、新しく開く扉っていっぱいあると思うんです。

  現在、超高齢化社会といわれていますが、時限的なもので、その先には少子化社会がやってきます。介護保険をはじめ社会保障制度は、いつだって完璧なものはできないでしょう。だからこそ、その時々の要求に合わせて変えていくことが必要です。制度はよりシンプルに、介護は専門家だけのものにしない、これが大事ではないかと思っています。

 

 

又木 京子(またき きょうこ)


 

1957年生まれ。ノンフィクションライター、介護福祉士。医療、介護に関する取材が多く、それらをテーマに映像制作も手がける。認知症ケアの本作りを契機に、介護現場への思いを強くし、訪問介護のヘルパーとしても活動。主な著書に、『純粋失読-書けるのに読めない』『やさしさのスイッチが入るとき-中学生とシニアのホームヘルパーの物語』『物語としての痴呆ケア』(小澤勲医師との共著)(以上、三輪書店)『ふつうの生、ふつうの死―緩和ケア病棟「花の谷」の人びと』(文春文庫)など。8月に『認知症やひとり暮らしを支える-在宅ケア「小規模多機能」』(岩波書店)を出版した。