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2010年2月号 アラ還を生きる人生は60歳から第6回 貧困をなくし、誰もが安心して生きられる社会を目指す 弁護士 宇都宮 健児さん

「アラ還(還暦=60歳前後)」の方々にお話をうかがうシリーズ「『アラ還』を生きる」。第6回は、弁護士である宇都宮健児(うつのみや けんじ)さんのインタビューをお送りします。長年、サラ金やクレジットカードによる多重債務問題に取り組んできた宇都宮さんは、「年越し派遣村」名誉村長、反貧困ネットワーク代表などを務め、反貧困の運動の先頭に立って活動されています。常に、社会的弱者の立場に立って闘い続ける宇都宮さんの人生と社会に対する思いに迫ります。

文字を書けない人がいることを知った衝撃から弁護士を目指す

大学入学後、弁護士を目指した理由をお聞かせください。

宇都宮   私は豊後水道に面した愛媛県西部の半農半漁の村に生まれました。家の前はすぐに海になっていて、畑に行くにも伝馬船をこいでいくような場所で、畑もろくにありません。そのため、私が小学校3年の時に、一家を挙げて対岸の国東半島に開拓農民として入植しました。山を切り拓き、畑にするために朝から晩まで働いている父親の背中を見ながら育った私は、親を楽にさせたいとの一心で、小学校から野球部に入り、巨額の契約金がもらえるプロ野球選手を目指しました。ところが、体格がよくなかったため、その夢は中学であえなく挫折。そこで、東大に入り、立身出世して親に楽をさせようと方向転換、1965年に東大文科一類に入学しました。そして、大変安い費用で暮らすことができる東大駒場寮に入ったのです。

  当時の駒場寮は学生運動の拠点になっていて、皆が社会問題について熱心に議論していました。私は卓球部で練習が忙しかったのと、寮の学生活動家の感覚が開拓農家出身の自分とは違うこともあって、学生運動には距離を置いていました。そんななかで、たまたま手にした『わたしゃそれでも生きてきた--部落からの告発』『小さな胸は燃えている--産炭地児童の生活記録集』という2冊の本を読んで、世の中には自分の家以上に生活が苦しく、貧しい人がたくさんいるということを知ったのです。『わたしゃそれでも生きてきた』は被差別部落で育ち、生きてきた女性たちの手記を集めたもので、特に小学校に通えず、文字を書けなかった52歳の女性がひらがなを習い、初めて書いた文章には大変な衝撃を受けました。

  その女性は私の両親と同じ年代でした。両親は苦労しているとはいえ、小学校には行っていますから、文字は書けるのですが、その人は書けなかったのです。私はそれまで被差別部落のことを知りませんでしたし、自分と同じ時代の人で、文字が書けない人がいることも知りませんでした。そうしたことから、このまま立身出世の道を進んでいってよいのだろうかという疑問が芽生えたのです。私のいとこたちは皆、中卒や高卒で働いています。そんななかで、自分だけがエリートコースに乗り、官僚や大企業の社員になって貧乏から脱出するという抜け駆け的な生き方はおかしいのではないか。自分と同じような階層で、貧しさに苦しんでいる人のために生きる道はないかと考えた結果、当時、東大法学部ではあまり進む人のいなかった弁護士を目指すことにしたのです。

12年のイソ弁生活と2度の解雇のなかで直面したサラ金問題

大学3年で司法試験に合格、1971年に24歳で弁護士になられます。

宇都宮   普通、司法研修所を出たばかりの弁護士は、先輩弁護士が経営する事務所で働いて、給料をもらいながら人脈を築くなど、将来の独立に向けた活動をします。そうした弁護士を居候弁護士、通称“イソ弁”といいますが、私は営業活動の能力がなく、全く顧客を獲得できませんでした。イソ弁は3~4年で独立するのが一般的ですが、私は独立できず、8年目になった1979年、とうとう勤め先の弁護士事務所を首になってしまいました。

  それで私が所属していた東京弁護士会に行き、次の事務所を探して何とか就職したのですが、それがちょうどサラ金が大きな社会問題になっていた時期でした。当時、大手サラ金会社が年100%というとんでもない高利で金を貸して、取り立ても夜討ち朝駆けでやっていた結果、多重債務者の夜逃げや自殺が多発し、弁護士会に相談が殺到していました。しかし、当時のサラ金は今のヤミ金と変わらない、やくざのような連中だったので、引き受ける弁護士がおらず、弁護士会も困っていました。そうしたら、8年もイソ弁をやって、2回目のイソ弁の口を探しに来た弁護士がいる。しかも田舎出で人がよさそうなので、この人なら引き受けてくれるだろうと、東京弁護士会の職員が私にどんどん回してきたのです。私も学生時代に考えていたような社会的にやりがいのある仕事ができると考えて、サラ金問題にのめり込みました。その結果、4年後の1983年に勤めていた弁護士事務所から「品の悪いサラ金事件から手を引くか。独立か」と迫られ、独立することにしたのです。

  首になるのは全人格を否定されることですから、2度の解雇は大変なショックで、野球選手になれなかったことを除くと、私の人生で最初の挫折でした。しかし、社会は順調に生きている人ばかりではありません。私が弁護士事務所を首にならず、挫折しなかったならば、サラ金問題と遭遇しなかっただけでなく、貧しさに苦しむ人たちの気持ちにも寄り添えず、貧困問題に取り組むことにならなかったと思います。

増え続ける多重債務者で感じた「一億総中流」への強烈な違和感

1970年代末から80年代初め、サラ金問題に対する弁護士の取り組みは
どういった状況だったのでしょうか。

宇都宮   当時、多重債務で苦しむ人たちについて、高利だと知りながら借りたのは自業自得だという借り主責任論と、借りたお金はギャンブルなどの遊興費に使っているのだろうという偏見が社会を覆っていました。弁護士も多くがそうした考え方に立っていて、相談に来る人に自己管理能力がないといい、自己破産などとんでもない、借りた金は返すべきだと説教していました。そのため、弁護士の間では、サラ金問題に取り組む弁護士はどぶさらいをする“サラ弁”という蔑称で呼ばれていたのです。しかし、相談に来る人から話を聞いてみると、高利のお金を借りるのは借りたくて借りるわけではない、経済的に困窮して、生活のためにやむなく借りているわけです。ですから、私は多重債務の問題を解決するのは、弁護士の使命だと考えて、精力的に取り組みました。

1980年代半ばは日本が世界一の経済大国だといわれ、バブルに上り詰めていく時代です。そうしたなかで、どのような思いで問題に取り組まれていたのでしょうか。

宇都宮   1983年に貸金業規制法ができて、「サラ金冬の時代」といわれますが、その後また多重債務者が増えていきます。それは、クレジットカードの使い過ぎで多重債務に陥るカード破産が増えたことが背景にあります。もともと返済困難な金利設定をしておきながら、夢を見させて消費をあおり、後は厳しく取り立て、地獄に突き落とす。そのやり方はアメリカのサブプライムローンと全く同じです。当時、マスコミをはじめ、世の中は「一億総中流」といっていましたが、相談に来る人の数は70年代末と変わらず、夜逃げや自殺も多発していました。ですから、これでどうして一億総中流なのだという強烈な違和感を覚えていました。その当時から現在まで、貧困の問題は日本社会の底流にあり続けているわけです。ところが、それをマスコミや政治家が見ないようにして、ごまかし、つい最近まで、経済大国だという幻想を維持してきたのです。

生活保護よりもサラ金が身近だという日本の社会保障の惨状

2001年以降、小泉政権の構造改革路線のもとで、多重債務や自殺、ホームレスなど貧困問題がさらに深刻化しました。それに対して、宇都宮弁護士が名誉村長を務めた2009年正月の「年越し派遣村」が大きな反響を呼びました。

宇都宮   2006年が大きな転換点だったと思います。ホリエモンや村上ファンドなどが登場し、「金で買えないものはない」という風潮がピークに達し、それへの批判がマスコミで出始めました。そんななかで、私がNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』に取り上げられたり、ワーキングプアやネットカフェ難民にスポットをあてた番組がつくられて、貧困の広がりが大きな問題として認識されるようになりました。

  サラ金(消費者金融)の金利は法律で規制されている現在でも、最高年29.2%もあります。こんな高利のお金を借りるのは低所得者層以外にはいません。そして、一度借りると金利がかさんで、一層の貧困化が進みます。ところが、日本はセーフティネットの仕組みが貧弱で、使えるのは生活保護だけです。それでも、皆が生活保護を利用できたら、サラ金からお金を借りなくてすみます。ところが、学校で「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権を保障した憲法25条は教えても、その権利の行使としての生活保護の申請方法は教えません。そのため、生活保護制度があることが経済的に困窮している人々に伝わっていないのです。

  逆に、そういう人たちの周りで宣伝しているのはサラ金やヤミ金ばかりで、高利貸しの方が身近な存在です。2000年に調査に行って驚いたのですが、フランスやドイツにはサラ金もヤミ金もないのです。厳しい金利規制があり、銀行が直接低利で融資します。そして、銀行からの借り入れが無理な人はセーフティネットがしっかりしているので、日本のようにサラ金やヤミ金に頼る必要はありません。

  日本は今まで、地域や家族のつながり、そして企業の終身雇用制の下での福利厚生制度があったため、制度の不備が表面化しませんでした。ところが、小泉政権の構造改革路線によって、制度を補っていたこれらの仕組みがすべて崩されてしまいました。仮に解雇されても、社会保障制度がしっかりしていれば、首になっただけで、住まいを失って野宿しなければならなくなるという悲惨な事態は起きなかったはずです。

地域のボランティア団体が政府や自治体に問題提起し、政策の実行を迫る

生活保護も自治体の窓口で申請を受け付けない「水際作戦」が日常的に
行われてきたことが明らかになっています。

宇都宮   予算が抑えられているために、「住民票がないとダメだ」と断ったり、65歳以下の人には「仕事を見つけてこい」といったりして、申請を認めないのです。その結果、餓死者まで出ています。こうしたやり方はすべて違法なので、弁護士や司法書士が同行すれば、生活保護の申請は受理されます。2009年1月の「年越し派遣村」では、同行によって、500人のうち300人近くの申請が認められました。これは大変画期的なことだったのですが、今までのやり方が違法なのですから、当たり前の運用になっただけの話です。

  日本では生活保護水準以下で生活していて、生活保護を受給している人(生活保護の捕捉率)は2割程度と推計されていますが、ドイツやイギリスでは8~9割です。これから見ても、日本では生活保護が権利として、行使される状況になっていないことが分かります。加えて、生活保護への偏見がある地方もあり、受給世帯の子どもが学校でいじめられるというケースもあります。ですから、生活保護法という名称を変え、「国からの恵み」ではなく、国民の権利であることを明記し、当たり前の権利として受けることができるようにしていく必要があると考えています。

昨年夏の総選挙の結果、政権交代が実現しました。今後、どのような取り組みが必要になるのでしょうか。

宇都宮   小泉政権の構造改革路線で国民生活は徹底的に破壊されてしまいましたから、社会保障を拡充し、国民生活を再建する方向での政策が求められています。しかし、政権が変わったからといって、それほど楽観できるわけではありません。金利規制を厳しくしたらヤミ金が増えるので、アメリカのように金利規制を完全に撤廃し、自由にすべきだと考える国会議員も多く存在します。そうしたことを考えると、市民運動や消費者運動、労働運動が問題を提起して、より厳しい金利規制などの政策の実行をきちんと迫っていく必要があります。政権交代に一喜一憂するのではなく、政党や国会議員がどんな発言と行動をしているかを常に監視することが重要です。そして、地域の様々なボランティア団体が目の前で困っている人を助けるだけでなく、政府や自治体に問題を提起し、きちんと意見をいい、政策を実行する圧力をかけていくことが、貧困をなくし、人々が安心して暮らせる社会を実現していくための大きな力になると考えています。

宇都宮 健児(うつのみや けんじ)


 

弁護士。東京市民法律事務所。

1946年愛媛県生まれ。1971年弁護士登録。以後、日弁連消費者問題対策委員会委員長、東京弁護士会副会長、「年越し派遣村」名誉村長などを歴任。現在、内閣に設置された多重債務者対策本部有識者会議委員、全国クレジット・サラ金問題対策協議会副代表幹事、地下鉄サリン事件被害者対策弁護団団長、反貧困ネットワーク代表。著書に『消費者金融--実態と救済』(岩波新書)、『反貧困--半生の記』(花伝社)、『大丈夫、人生はやり直せる--サラ金・ヤミ金・貧困との闘い』(新日本出版社)、『弁護士、闘う 宇都宮健児の事件帖』(岩波書店)、『弁護士冥利--だから私は闘い続ける』(東海教育研究所)など多数。