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2009年12月号 アラ還暦を生きる人生は60歳から第4回 ランニングは人生と同じ。地道な努力が実を結ぶ マラソンプロデューサー 坂本 雄次さん

「アラ還(還暦=60歳前後)」の方々にお話をうかがうシリーズ「『アラ還』を生きる」。第4回は、マラソンプロデューサーで、株式会社ランナーズ・ウェルネス、代表取締役社長の坂本 雄次(さかもと ゆうじ)さんのインタビューをお届けします。「24時間テレビ」のマラソンプロデューサーとして知られる坂本さん。マラソンを始めたきっかけやその面白さ、間寛平さんとの出会い、会社をやめてランナーズ・ウェルネスを設立した経緯や市民マラソン実現までの道のりなど、坂本さんのマラソン人生についてうかがいました。

痩せたいという一念で、走り始める

ランニングを始めた理由をお聞かせください。

坂本   私は高校生の頃、身長は167cmしかないのに、体重は73kgもあって、とても太っていました。ちょうど、ビートルズが流行し、学生運動も盛んで、新宿に行けば、ヒッピーがたむろしているなど、新しくて刺激的な若者文化が日本中を席巻していた時代でした。そんななかで、憧れたのは三つボタンのジャケットにボタンダウンシャツ、細身のパンツというアイビールックを日本に流行らせたVAN Jacketの石津謙介さんやイラストレーターの横尾忠則さんでした。彼らに触発されて、おしゃれをしようとしたのですが、太っているので、着たい服も着られない。それどころか、学生服が股ズレしたり、靴のひもを結ぼうとしても、うまくかがめないほどだったのです。

  その後、入社した東京電力は3交代勤務で仕事がきつかったため、20歳前には13kgも痩せて、体重は60kgになりました。それで、好きな服も着られるようになり、安心していたのですが、1977年30歳の健康診断で、半年で4kgも増えたことが分かったのです。太っていて惨めだった10代の頃を思い出して、このままではまずいと思い、走ることにしました。

  ともかく痩せたい、痩せれば着たい服を着ることができるし、食べたいものも食べられる。この思いだけで、昼休みに走り始めたのですが、最初は500mぐらいしか走れません。ところが、自分なりに工夫して走り続けていたら、人間の身体は不思議なもので、段々動くようになる。走れる距離が750m、1,000mと伸びていくにしたがい、マラソンが俄然面白くなりました。そして、汗をかきますから、走り終わった後は何ともいえない爽快感がある。これでやめられなくなり、最初の年は1年間で350日と、ほぼ毎日走ることになりました。

駅伝チームの監督を引き受け、6年目に優勝

すぐに、事業所の駅伝監督になり、93年まで15年間続けられました。

坂本   東京電力は社内の対抗駅伝がさかんで、私が勤めていた神奈川支店でも毎年暮れに21事業所対抗の駅伝大会を開催していました。それに出場するために各事業所では、その年に入社した新人を集めて、練習させるのです。私はもう30歳を超えていたので、駅伝とは関係なくひとりで走っていたのですが、彼らとは走るという共通項がありましたから、一緒に和気藹々と走るようになりました。そのうちに、監督をやっていた人が転勤でいなくなってしまい、上司から「監督をやれ」と言われて、引き受けたのです。

  監督になった前年の駅伝で、引き受けたチームは支店21チーム中19位という弱小チームでした。大体が2カ月程度の練習という促成栽培で大会に挑むので、選手たちは身体を痛めるし、当然ながらよい結果も期待できません。そこで私は、それまで私の身体調整をお願いしていたプロのトレーナーに教えを請うて、身体の構造や筋肉の付き方、練習後のマッサージなどを学びました。全くの素人でしたが、何とかスキルを習得し、それをベースに、選手たちの身体メンテナンスを行うようになった結果、徐々に故障を減らすことができました。

  また、以前のような2カ月という短い準備期間ではなく、年間計画を立て、1年を通して恒常的に走るようにしました。トレーニングのために、あちこちの大会にも参加したので、物理的にも金銭的にも非常に大きな負担がかかりましたが、そうした努力が実って、監督6年目にして、現在でも破られていない記録で優勝することができました。

人生を決めた間寛平さんとの出会い

1992年から現在まで、「24時間テレビ 愛は地球を救う」の「24時間マラソン」のマラソンプロデューサーを務められています。なぜ、「24時間マラソン」にかかわるようになったのですか。

坂本   1990年に、タレントの間寛平さんと出会ったことがきっかけです。

  「楽しみながら走りたい」という思いもあり、1985年頃から、私たちの職場の駅伝チームでは、日本橋を起点にした東海道や中山道など五街道の旧道調査と駅伝走をやりました。「お江戸日本橋七つ立ち……」と童謡にもあるように、朝4時に日本橋を出発して、東海道でいえば、五十三次の宿場をたすきでつないで、京都の三条大橋まで走るような試みです。

  東京から大阪まで走ろうとしていた寛平さんがこの話を聞いて、「東海道を走るにはどんなルートでどんなプランを立てればいいのか。以前走ったときの資料をもらえないか」と連絡してきたので、差し上げました。寛平さんは、私たちのルートとデータをもとに、1日80kmのプランを立てて走り始めました。私は寛平さんに資料を送ったこともあり、辻堂から小田原まで一緒に走りました。そうしたらその数日後、名古屋から「足にマメができて、走れなくなったので、応援してくれませんか」という電話がかかってきたのです。それで、急遽名古屋に行き、今度は大阪まで一緒に走りました。

  寛平さんが東京から大阪まで走っていたのは、ギリシャ神話にちなんで、ギリシャのアテネからスパルタまでの約250kmを一昼夜半かけて走破するウルトラマラソン「スパルタスロン」に出場するためだったのです。それを聞いて私は、1990年に寛平さんと一緒にギリシャへ行き、スパルタスロンを走る寛平さんのサポートを行いました。残念ながら寛平さんはその年はリタイヤしてしまいましたが、翌年リベンジして完走、それをドキュメンタリーとしてテレビ局が放映しました。

  そうした2年間のつきあいで、私と寛平さんとは縁浅からぬ関係になりました。その後彼は、92年に行われた「24時間テレビ」初めての「24時間マラソン」で、新潟県苗場スキー場から武道館までの200kmを走り、大変な話題になりました。私は当時、東電の社員でしたので、ボランティアとして彼を応援し、以来「24時間マラソン」に出場するタレントの人たちの指導と伴走をしています。

第二の人生は、まず健康づくりから - ランニングのススメ

93年には、東電を退職、ランナーズ・ウェルネスを設立されます。

坂本   東電は安定した会社ですから、定年までいれば、退職金もしっかり出るし、第2の職場も保障されます。けれども、ギリシャでスパルタスロンを見てから、ランニングが持っている魅力のようなものをそれまでにも増して強く感じるようになりました。そんななかで、いくつかの夢を持つようになりました。そのひとつが私が生まれ育ち、今も住んでいる湘南海岸でマラソンをやりたいというものです。それを実現するには、勤めながらでは無理だ。そう考えて、東電を辞め、会社を作ったのです。

  また、ギリシャのスパルタスロンで精神的に触発されたのは、黒子の大切さでした。文楽は人形を操る黒子の人形遣いがいなければ上演できませんし、タレントもマネージャーがいなければ活動できません。それと同じで、世の中は陰と陽の組み合わせだと思い、人を支える裏方の大切さを感じるようになりました。そこで、ランナーズ・ウェルネスを立ち上げ、マラソンにチャレンジするランナーを陰で支える「黒子」になろうと決心しました。

団塊の世代で、「これから自分の時間が増えるのでスポーツを始めたい」と思っている人も多いと思います。アドバイスなどがありましたら、お聞かせください。

坂本   団塊の世代はこれから人生のサードステージを迎えようとしているわけですが、全体の傾向としてはポジティブにものごとを考える人が多いように思います。まだ何かやれるし、やってみたい。ただ、そう考えたときに、元気でなければ何もできません。ですから、健康な身体を維持するために、「まずは走らなくてもいい。しっかり歩いてみよう」とアドバイスしています。ランニングの基本はウォーキングです。普通の歩行は時速4km。それを5km、6kmと速めていくと、歩き方が速歩、急歩に変わります。急歩になると、身体の上下のバランスがとりにくくなるので、ガンガン腕を振らないと歩けません。そのとき、ランニングのフォームをすると、こんなに楽になるのかと思うくらい、楽に進めます。その要領で、急歩からランニングへと自然に移っていけばよいのです。そうすれば、無理なくランニングに取り組むことができるはずです。こうした運動を、週3回、3カ月くらい続けると、身体がマラソンに慣れて習慣化してくるので、今度は、毎日身体を動かさずにはいられなくなる。そうなればしめたものです。

目標を決めてやり続ければ、夢は実現する

今までの人生を振り返ってみて、何が自分を支えてきたとお考えですか。

坂本   湘南マラソンをやりたいという夢は、2007年についに実現しました。神奈川県を東西に結ぶ動脈のひとつである国道134号線を交通止めにしてやるわけですから、とても無理だろうと考えていました。それでも、あきらめずに活動してきたことで、14年目にして実現することができました。自分でやりたいと思ったことはあきらめずに、自分の気持ちのなかで持ち続けていると、実現することができる。ウルトラマラソンも同じで、たどり着けるという思いがあれば、いつかは走りきることができます。

  世界のウルトラマラソンに参加する鉄人になった寛平さんが「KANPEI EARTH MARATHON(間寛平アースマラソン)」と名づけたマラソン&ヨットで、世界一周に挑戦しています。2008年12月に大阪を出発して、太平洋を二人乗りのヨットで横断、アメリカ大陸を走り、大西洋を横断して、今、チェコのあたりを走っています(2009年10月22日現在)。地球規模で見れば蟻のような歩みですが、彼は毎日、目標に向かって走り続けています。それと同じで、どんなことでも目的に向かってやり続ければ、達成することができる。そう言い続けて、自分なりに努力していくことが閉塞感のある今の社会を変えていくことにつながると考えています。

坂本 雄次(さかもと ゆうじ)


 

1947年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。東京電力に入社し、1978年から職場の駅伝チームの監督を15年務め、選手を育てる。1990年、タレントの間寛平さんとの出会いから、ウルトラマラソンに注目。1992年から現在まで、「24時間テレビ」のマラソンプロデューサーとして、参加するタレントたちを指導している。93年、「100kmウルトラマラソン」や「24時間リレーマラソン」などの企画・運営を手がける株式会社ランナーズ・ウェルネスを設立。主な著書に、『なぜあなたは走るのか 激痛に涙あふれてもなお』(日本テレビ放送網)、『あなたにもできるフルマラソン』(学習研究社)、『ゼロからのフルマラソン』(祥伝社新書)。