• ご加入の皆さま
  • マイページ
  • 共済金のご請求

バックナンバー

2009年10月号 アラ還暦を生きる人生は60歳から第2回 定年を待たず退職。自分と家族、そして人のために生きる 医師、諏訪中央病院名誉院長 鎌田實さん

「アラ還(アラウンド還暦=60歳前後)」の方々にお話をうかがうシリーズ「『アラ還』を生きる」。第2回は、医師で諏訪中央病院名誉院長の鎌田實(かまた みのる)さんのインタビューをお届けします。医師を目指したきっかけ、当時多額の赤字を抱えた信州の病院に赴任した理由と立て直しの経緯をうかがうとともに、チェルノブイリ原発事故で被曝した子どもたちや、戦時下のイラクの子どもたちへの医療支援活動を精力的に行っている鎌田さんの生き方や考え方、そして今後の目標についてお聞きします。

「誰かのために生きたい」との思いから、信州の農村で医者になる

医師を志した理由をお聞かせください。

鎌田   私が医師になりたいと思ったそもそものきっかけは、高校生の時に「自分は自由になりたい」と思ったからです。私は好奇心がとても旺盛だったのですが、家が貧乏だったこともあり、あまり旅にでるようなこともなく、したがって自分の好奇心を満たしてくれるのは本だけでした。でも本を読めば読むほど世界が見えてくる。そんななかで、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』を読み、「船医になれば、自由に外国を見て回れる」などと漠然と考えるようになりました。その後、「どうしても医学部に行って勉強したい」という熱い思いを持つに至ったのは、イギリスの作家アーチボルト・J・クローニンの小説に出会ったことがきっかけです。クローニンは元々医師で、1920年代に炭鉱町の診療所で働いた経験をもとに、若い医師が貧しい労働者を救うという小説を書いていました。それを読んで私は非常に感動し、「医師になって人の役に立つ仕事をしたい」という明確な目標を持つようになりました。

  そこで、父親に医者になりたいと話したところ、最初は「貧乏なので、大学への進学は無理だ」と強く反対されました。しかし何度も話すうちに、とうとう、高校3年の夏、父親から「自分の責任でやるのなら、自分の好きなように、自由に生きていい」と言われたのです。私は、父のこの言葉によって、「医師を目指す」という自由を手に入れることができたし、もっと大きな意味で言えば、今日に至るまで、「自分の人生の選択を自分の意思で決めていいんだ」という自由を得ることができたのだと思っています。ですから父にはとても感謝しています。

大学卒業後、医師になるとすぐに、長野県茅野市の諏訪中央病院に赴任されました

鎌田   1974年25歳の時に、やって来た病院は茅野市と諏訪市、原村が共同で運営している公立病院で、累積赤字が4億円に達し、つぶれる寸前でした。私がこの病院で勤務するようになったのは「医者がいなくて困っている」と聞いたからです。そして、信州の農村で田舎医者になり、困っている人たちのために医療活動を行うことが、自分の生き方にあっていると思ったのです。

  そうした生き方を選択するベースとなったのが、学生運動の経験です。私は学生運動が一番盛んな時期に大学に入り、一番下っ端で運動に関わりました。いろいろな人に迷惑をかけたと思いますが、しかし、運動に参加することで「自分でない誰かのために生きた」ことが、私にとって大きな意味を持ちました。当時私たちは、「自分でない誰かのために生きる」ことを「自己否定」という言葉で表現しました。これは、「自分の出世や利益、幸福だけを考えてしまう自分自身のエゴを否定する」というような意味を持っています。運動が下火になると、先頭に立っていた先輩がすーっと大学に戻ったりするのを見て、「そういう形であいまいにしたくない。自己否定という考え方にだけはこだわりたい」と思いました。実際には、人は自分のため、家族のために生きているわけで、自分自身の幸せを100%否定して生きることはできません。しかし、99%はそうだとしても、1%くらいは「誰かのために生きたい」。それが学生運動のなかで、自己否定という言葉にこだわった自分にできることだと思ったのです。こうした考えから、あえて私は、諏訪中央病院で地域医療を担う道を選択しました。

地域医療に取り組むとともに、チェルノブイリやイラクの子どもたちも支援

その後、地域医療に取り組んで、見事に病院を立て直されましたね。

鎌田   病院には、医療を変えたいという情熱を持った若い医者が集まっていました。僕たちは、患者さんに、なるべく注射をせず、薬を出さずに、食べ物に気をつけ、生活習慣を変えようという話をしました。しかし、当時の患者さんは医者は注射と薬を出すものと考えていますから、ますます患者は減り、病院の赤字は増えていきました。ところが、しばらくすると、保健婦さんたちが今度来た医者は今までとは違うということに気が付き、地域の人たちに「先生たちは間違っていない」と話してくれました。そして、そこから地域に出て、地域で学ぶ諏訪中央病院の医療活動の歴史が始まったのです。

  地域に出て、家の中で寝たきりの老人を初めて見た時には、「これは放っておけない」と思いました。当時、家で寝たきりの人に対する国の制度はありませんでした。しかし、制度がないから取り組まないというのは、単なる逃げで、国の制度が遅れているだけの話です。それで、僕たちが地域で見た大変な状態の人たちに、何かできることはないだろうかと考えたことが、日本で初めてのデイケアになりました。

1991年には、チェルノブイリ原発事故で被曝した子どもたち、2004年にはイラクの子どもたちへの医療支援活動を始められました。そのきっかけをお聞かせください。

鎌田   1990年夏、北海道の人が「東京の病院に頼んでみたが、どこにも相手にされない。チェルノブイリの子どもたちを救ってください」と突然、訪ねてきたのです。本当に唐突な話でしたが、僕は「ノーと言えない」性格で、大概のことは引き受けてしまうのです。そんなことから、チェルノブイリへの医療支援を始めました。そうした形で色々なことを引き受けていると、さまざまな人とのつながりが生まれますし、僕はそのつながりをとても大事にしています。イラクの小児病院に毎月500万円の医薬品を送る活動も、そうしたなかから始まりました。

限りある人生のなかで、やり残しがないようにしたいと10年早く退職

2001年には、13年間勤めた院長を退かれましたが、どうしてなのでしょうか。

鎌田  諏訪中央病院は公立病院ですから、医師は公務員で身分は保障されています。病院は日本中から注目されており、院長はとてもやりがいのある仕事でした。しかし、50歳になる頃に、病院にかかりきりで、仕事人間だった自分を変えたいと思うようになりました。人間誰しも限りある命を生きているわけで、あの世にいろいろなものを持って行くことができない以上、やり残しがないようにしたいと考えたのです。そうすると、少年の頃、夢中になっていたように、本をもっと読みたいという思いがむくむくと湧いてきました。書くことも好きだったので、文章も書きたいと思うようになった。映画も好きだったのに、病院の立て直しに全力投球で、院長をやっている時は映画や芝居もろくに見ることができませんでした。だから、それもしたい。そして、チェルノブイリには今まで91回、医師団を派遣していますが、僕が行けたのは、たった5、6回。もっと関わりたいという思いもありました。

  それで、50歳の時に、院長を辞めたいと任命者である茅野市長と妻に話しました。妻は生活を心配し、市長は病院経営が不安だと言って、すぐには受け入れられず、毎年、話し合いを続けました。その結果、52歳の時に院長を退き、公立病院の医師の定年からは10年ほど早いのですが、2005年に56歳で病院を退職させてもらいました。今はパート医として働いています。

  院長退職後の生活で、一番大切なのは家族との時間ですが、好きな本を読み、ものを書き、映画や芝居も見に行っています。そして、以前、自分の中で1%くらいだった「誰かのために生きる」は今5%くらいの比重を占めるようになっています。ですから、医師としては、これから4年、65歳まではチェルノブイリとイラクを軸に国際医療支援の活動に、全力投球したいと考えています。

大勢に逆らうような生き方を後押しした父親の言葉

今までの人生のなかで、一番大きな意味を持った言葉は何だったのでしょうか。

鎌田   先にもお話ししましたが、父親が「自由に生きていい」と言ってくれたことです。その言葉は、人生の岐路に立たされた時に、普通の人が選ぶ道とは違う方向に進むという僕の生き方をいつも後押ししてくれました。諏訪中央病院に来た時も、チェルノブイリの子どもたち、そしてイラクの子どもたちへの支援活動を始めた時も、そうでした。チェルノブイリは当時、ソ連だったので、批判的な意見がありましたが、「子どもは共産主義を選んで生まれているわけではないし、白血病の子どもに責任はない」と考えて、支援を始めました。また、イラクの子どもたちへの支援への批判に対しては、「僕には僕の考えがある。自由じゃないか」と思い、少なくとも、自衛隊がイラクに行くよりは、自分がやることの方がよほど意味のある人道支援だと考えました。恐い者知らずというか、大勢に逆らうような、こうした僕の行動はすべて高校3年の夏、18歳の時に、父、岩次郎が「自由に生きていい」と言ったことが背中を押してくれています。

「誰かのために行動を起こす」好機にある団塊の世代

鎌田さんにとって、団塊の世代とはどのような世代ですか。また、同世代の人たちに期待することは何でしょうか。

鎌田   僕たちの世代は、小さい頃から競争が激しかったり、結構、大変な時代を生きてきたと思っています。ただ数が多く、塊だったために、発言力も強く、他の世代に比べれば、恵まれているという面も確かにあるわけです。医療の問題に限らず、今、この国のあり方が問われていますが、日本はまだ「いい国」という土俵を割ってしまったわけではありません。僕は以前から「ウェットな資本主義を目指そう」と言っています。それは上半身は貿易立国として強くして、下半身の土台の部分に医療と福祉と雇用、子育て、教育を充実させて、血を通わせていく社会です。その実現には、政治の役割はもちろん重要ですが、僕たち自身が人と人のつながりをもう一度作り出し、社会を立て直していく必要があります。

  還暦を迎えて、ぜいたくを言わなければ、何とか食べていける団塊の世代は塊として、たくさんいるわけですから、何らかの手伝いができるはずです。今まで、団塊の世代は自分や家族、会社のために、全力投球をしてきました。しかし、これからは、さまざまなしがらみからも自由になるわけで、自分たちの感性にもとづいて、誰かのために行動を起こしていくことができると思うのです。

社会を立て直すカギは人と人のつながりをもう一度作り出すこと

これから、会社以外の世界で、人とのつながりを作るために、一歩を踏み出したいと考えている人はどうすれば、よいのでしょうか。

鎌田   僕は田舎の地域のコミュニティがまだ残っているところに住んでいます。この間も、町内会の副町会長を頼まれたので、「やっているヒマがない」と断りました。そうしたら、町の古老から、「世界でいくら活躍しても、町会の役員をやらなければ、人間として、まっとうではない。先生が忙しいのはわかっているから、出られない時は奥さんが出ればいいし、きちんと役割を担うことが大切だ」と言われて、「なるほど」と思いました。人間が生きていくうえで、大事な地域の役割は東京のような都会でもあるはずです。最近では、フランスで始まり、日本でも開かれるようになった「隣人祭り」のように、地域で人と人がつながろうという、新しい動きが出てきています。そうしたアクションに挑戦して、団塊の世代が地域で、お互いの自由を認め合ったうえで、自分たちのやり方で人とつながっていくことが地域のセーフティネットをよくするためにも、安心できる環境で子どもたちを育てていくためにも必要です。

  初めは、どんな小さなことでもいいと思うのです。やり始めは反応がなくて、バカじゃないかと思われるかもしれないけれど、たとえば、朝駅まで歩く時に、「おはよう」と言ってみるとか。そんな形で、小さなアクションを起こしていかないと、地域は変えられません。一方で、最初はひとりでやっていても、同じことを考えている人が必ず出てくるはずです。ことによったら、10年くらいかかるかもしれませんが、そのように、人と人がつながるための努力をすることで、世の中を少しずつでも、よくすることができると確信しています。

鎌田實(かまた みのる)


 

諏訪中央病院名誉院長、看護学校長、老健施設長。
1948年東京生まれ。長野県の諏訪中央病院で、地域医療に携わる。88年、同病院院長に就任。現在、諏訪中央病院名誉院長、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)理事長、日本・イラク・メディカルネット(JIM-NET)代表、東京医科歯科大学臨床教授、東海大学医学部非常勤教授。著書に『がんばらない』『あきらめない』『それでもやっぱりがんばらない』『ちょい太でだいじょうぶ』(集英社)、『へこたれない』(PHP研究所)などがある。

ブログ「日刊鎌田實 なげださない」