• ご加入の皆さま
  • マイページ
  • 共済金のご請求

バックナンバー

2009年9月号 アラ還暦を生きる人生は60歳から第1回 ジャーナリストに定年なし。倒れるまで邁進 ジャーナリスト伊藤千尋さん

「アラ還(アラウンド還暦)」という言葉をご存じでしょうか。これは流行語となった「アラフォー(40歳前後)」と同様に、還暦(60歳)前後を指す言葉です。現在「アラ還」となった方々にお話をうかがう新シリーズ「『アラ還』を生きる 人生は60歳から!」。第1回は、朝日新聞記者でジャーナリストの伊藤千尋(いとう ちひろ)さんのインタビューをお届けします。この9月に定年を迎える伊藤さんに、ジャーナリストを目指した理由や35年の記者人生、これからの目標などについてうかがいました。

ベトナム報道でジャーナリストを志す

ジャーナリストになろうと考えたのは、何がきっかけだったのでしょうか。

伊藤   私は山口県下関の出身です。かつての長州で、明治維新の時から多くの政治家を出しました。そういうお国柄なので、「大人になれば東京に出て、政治家になる」という風土がありました。ですから、私自身も高校生の時は、本気で総理大臣になろうと考えていました。

  その後、1968年4月に上京、東京大学法学部に入学しますが、そのころ東大ではすでに学園闘争が始まっており、入学後2ヶ月で機動隊が導入されました。その中で、教授や政治家がおろおろする姿を見て、本当に情けないと思ったのです。それまでは「苦しんでいる人々のために尽くすのが政治家だ」と思っていましたが、現実はまったく違っていた。そこで、「政治家を志したい」という今までの価値観がすっかり崩れてしまいました。

  当時は、ベトナム反戦運動や反公害運動が盛り上がっていました。その中で、何人ものジャーナリストが身の危険を冒してベトナム現地に入り、戦争の真実とその悲惨さを報道していました。たとえば、TBSのニュースキャスターだった田英夫は『ベトナム報告』という形で、西側のテレビメディアとしては初のベトナム戦争取材を北ベトナムで行い、アメリカや日本の政府の主張が真実ではないことを明らかにしました。また、朝日新聞記者の本多勝一は最前線に赴き、戦闘に巻き込まれた民衆の悲惨な実態やアメリカの侵略と闘う南ベトナム解放民族戦線の様子を取材、『戦場の村』や『北爆の下』など多くのルポを発表しました。

  これらの報道は世界中で大きな反響を呼び、ベトナム反戦運動の盛り上がりに大きく貢献しました。彼らのようなジャーナリストによる命がけの報道が、アメリカ政府の主張の虚偽性を暴き、それが社会変革を促す運動へとつながっていったのです。そうした現実をまざまざと見て、ジャーナリストこそが真の政治家であり、社会の変革者だと考えるようになりました。そして、自分もジャーナリストになりたいと思うようになったのです。

人生「面白さ」だと1度目の入社を蹴る

そのまま、朝日新聞社に入ったのですか。

伊藤   いえいえ。大学3年の時、キューバに半年ほど行きました。ジャーナリストを志望し、世界に視野を広げてみると、「日本の常識は世界の非常識ではないか」と考えるようになったのです。そこで、違う世界を見てみようと、日本とは文化や価値観も全く違うキューバに、今でいうボランティアとして、サトウキビ刈りに行きました。

  帰国後、朝日新聞社の入社試験を受け、入社の内定を受けたのですが、内定をもらった途端に、「自由な学生のうちに、もっと何かするべきことがあるのではないか」と考えるようになりました。その時ちょうど、産経新聞社が、世界中を探検してくるアドベンチャープランというのを募集していました。そこで私は、「人はなぜ、旅をするのか」というテーマを掲げ、一生旅をして生活するロマ民族を文化人類学的に調査するという案を作って応募しました。それが通ったという連絡を受けたのが、朝日新聞への入社の1週間前。もう社員研修も終え、新潟支局への配属も決まっていました。

普通であれば、就職を棒に振ることはしないでしょう。

伊藤   さて、どうしようと考えました。ロマを追っかけて、それが自分の人生の得になるとは思えないけれど、何か面白そうだ。「自分の人生、損得勘定で生きるのか、面白さやロマンに拠るのか」と。「よし、ロマンで生きよう」と決めて、朝日新聞に行き、「入社を1年間、延ばしてもらえませんか」といったのです。そうしたら、「だめだ」といわれたので、「じゃあ、来年にもう1回受けさせてもらえませんか」というと、「いいよ」といわれました。鷹揚な会社だなと思いましたね。

  それで、ルーマニアや旧ユーゴスラビアを回り、その報告を産経新聞に12回連載しました。そして、翌年、朝日新聞の試験をもう1度受けて再び合格し、入社しました。

10万人いれば、10万のニュースがある

35年近い記者の経験の中で、一番の転機は何だったのでしょうか。

伊藤   転機になったのは、入社4年後の1978年、福岡県の筑豊支局勤務になったことです。当時、筑豊は炭鉱も閉山して、書く記事は何もないといわれていました。ところが行ってみたら、大ありです。2日に1回くらい筑豊版のトップ記事を書くようになった。筑豊には失業者がたくさんいるわけですが、そういう中でも人はちゃんと生きている。当時、私が管轄する地域の人口は10万人。そこには、10万のニュースがあると思いました。さらに、ひとりの人が人生で3回くらい輝くことがあるだろう。ならば、30万のニュースがある。そう考えて動き始めたら、次から次へとニュースが出てきました。これが私の原点になりました。

「本業ジャーナリスト、副業会社員」と自称されています。どんな意味なのでしょうか。

伊藤   これは、自分が会社員である前にジャーナリストである、という宣言です。私が入社した頃、新聞記者は「社会の木鐸」と言われていました。新聞記者は、よりよい社会を作るために報道することこそ使命と考えられていたのです。しかし、私の10年くらい後から入ってきた人たちの多くは、ジャーナリストである前に普通の会社員として振る舞うような傾向が出てきました。そこで、あえて「本業ジャーナリスト、副業会社員」というようにしました。

  朝日新聞社に限りませんが、メディア企業に入ることがそのままジャーナリストになることではありません。会社の指示で取材をして記事を書いても、これはジャーナリストの仕事とはいえない。最も虐げられた人の視点に立ち、そこから社会の矛盾やあるべき姿を提示する。そうした社会変革への視点があって、初めてジャーナリストといえるのだと思います。

昨年は1年間に100回も講演されたとか。本もたくさん書かれています。

伊藤   取材をしても、記事に書けるのはほんの少しのことだけ。たくさんの人に会って、取材しても、多くはこぼれてしまいます。せっかく話してくれたことが新聞には載っていない。載らなかったら、新聞社の社員としては「ごめんなさい」と謝ればいいかもしれないけれど、ジャーナリストとしてはそれでは済まない。ですから、まず新聞に書く。それで載らなかったら、雑誌に書く。そこでも載せきれなかったら、本を書く。それでもまだという場合は、講演して伝える。さらに、媒体や場が用意されていなければ、自分で伝える場を作ればいい。そう考えて、本の執筆や講演を積極的にやってきました。

目標は世界192ヶ国全取材と自前のメディア

この9月で定年とのことですが、これからの目標は何でしょうか。

伊藤   「ジャーナリストに定年なし。倒れるまで、本業に邁進するのみ」です。今まで、毎年一週間くらい「ピースボート」に乗船してきました。地球一周の船旅をする中で、平和を考え、世界の人々と交流することを目的としたクルーズです。私はこの船上で講座を行い、いろいろな人と交流をしてきました。

  来年からは、地球一周の全クルーズに乗り、今まで、行ったことがない国を取材したいと思っています。現在、世界には192の国がありますが、今まで取材したのは68カ国。まだ3分の1に過ぎません。残り124カ国すべてを訪れたい。

  もうひとつの目標は、自分のメディアを持つことです。学生時代から、自分のメディアを持ちたいと考えてきました。メディアといっても、ただ一方的に情報を提供するのではありません。以前、神戸で「地球1周、今世界を語る」というテーマで、私が2時間講演し、残り3時間、参加者で討論する催しを毎月1回、7ヶ月連続でやりました。面白い質問がたくさん出て、本当に盛り上がり、最初30人ぐらいだった参加者は最後には100人になりました。皆、話したくて、仕方がないのですね。けれども、そういう場が日本にはない。講演をきっかけに、問題意識を持った人がたくさん来て、みんながしゃべり、お互いに刺激される。これこそ、メディアです。目指すべきメディアのひとつの形だと思います。

社会を変えるために、立ち上がろう

同世代である団塊の世代に何を期待しますか。

伊藤   私たちは学生時代、大学のスト中にはクラス討論をやっていました。その時、指鉄砲みたいにお互いを指さして、「お前はどうするんだ」と真面目に議論しました。「さまざまな社会矛盾、社会問題がある中で、自分は具体的に何をするか」ということをお互いに問うていたのです。社会との関係性のなかで、自らの生き方が問われ、相手にも問う。そのまっただ中で、真剣な日々を過ごした経験が団塊の世代にはあります。

  今、団塊の世代は日本をダメにした元凶のようにいわれますが、私はその指摘は間違っていると思っています。学生時代、社会をよくしようと真剣に考え、実際に行動したのが団塊の世代です。ですから、団塊の世代はもっと誇りを持つべきだと考えています。

  幸いなことに、団塊の世代の多くの人は元気です。ただ、その元気の向かい先が少し違っているようです。定年後、何をやるかというと、そば打ちや家庭菜園など、ご隠居さんのような生活に走ってしまう人が多く見受けられます。しかし、私に言わせれば「一体、何考えているんだ」です。

  7年ほど前、コスタリカでエコツアーに参加しました。その時、山小屋で荷物を運んでくれた老人は元大統領でした。雨の中、傘を差し掛けてくれた老婦人は元大統領夫人。その人は大統領を1期やって、これ以上続けたら、若い人が育たないと引退した。「平和国家、教育国家の道筋は付いたから、これからは環境国家だ」と私財を投じて、山小屋を建て、エコツアーを始めた。30年前ですよ。団塊の世代は、こういう人を見本にすべきだと思うのです。社会を変えたいと若いころ立ち上がった経験があるのなら、「今からもう一度やってみようじゃないか」と呼びかけたい。

生身でつながり、新たなコミュニティを作る

社会とつながりたいと思っている団塊の世代の人はどうしたらよいのでしょうか。

伊藤   1960~70年代のベトナム反戦や反公害の運動が盛り上がり、社会的に大きな影響力を持ったのは、人と人のつながりを作ったからです。今の日本は、バーチャルなネット社会になって、リアルな関係性がどんどん希薄になっています。ですから、どんなことをやるにしても、まずつながりを作るところから始める必要があります。何よりも、面と向かって、意見を闘わせたり、本音をいったりする、生身の体験が大切です。

  今、日本でもNGOやNPOという形で、人々が自主的に集まって活動するグループが増えています。私の学生時代は市民運動といっても、作家の小田実さんを代表に、アメリカのベトナムへの軍事介入に反対する「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」があったくらいです。あとは、政党や労働組合などの組織が作ったものに乗っかるだけでした。しかし、今のNGOは自主的に人が集まって作っているという点で、決定的に違います。こうした市民の集まりが、今後の社会変革の大きな力になることは間違いありません。ですから、そういう形のグループに参加することも、ひとつのやり方です。

  また、NGOやネットワークの場を自分から作り出してもいい。そうして、動き始めれば、問題意識を持っている人はたくさんいるので、人が集まってきます。まずは、思い立った人たちが集まって、開かれたコミュニティを作っていく。そこから新しい日本が始まると考えていますし、団塊の世代がその先陣を担うべきだと思います。

伊藤千尋(いとう・ちひろ)


1949年、山口県生まれ。1974年、朝日新聞社に入社。中南米特派員、欧州特派員、米国特派員などを経て、現在は土曜版「be」編集部に所属。著書に『活憲の時代』『君の星は輝いているか』(シネフロント社)、『反米大陸』(集英社新書)などがある。