- わたなべ・ちえこ/株式会社アバンティ 代表取締役。NPO法人日本オーガニックコットン協会副理事長。1952年、北海道生まれ。明治大学商学部卒業後、光学製品を扱う株式会社タスコジャパンに入社。入社時から「35歳になるまでに、5つの会社の役員になる」と豪語し、トップクラスの営業成績を残す。1983年、同社取締役副社長に就任。1985年、タスコジャパンの子会社として株式会社アバンティを設立。1990年、株式会社タスコジャパンを退社。この年、テキサスのオーガニックコットンと出会う。1993年、テキサス州にKatan House Japan Inc.を設立。2008年、オーガニックコットンを広めた功績により、株式会社アバンティが「毎日ファッション大賞」受賞。2009年、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」のリーダー部門、そして総合7位を受賞。2010年、NHKの人気番組「プロフェッショナル仕事の流儀」に取り上げられる。2011年からは震災復興のための「東北グランマ」プロジェクトを発足させた。
私、子どもの頃からすごく元気なんですよね。「元気を出さなきゃ」と思っているわけではなくて、根っから元気。朝もパッと起きて、「よっしゃー!」という感じで、カッカッと歩いて出社するんです(笑)。でもこれは、当たり前じゃなくて、奇跡みたいなことだとわかっています。だから、その奇跡を人のために使わなくちゃ神様に叱られる、と昔から思っていました。
1990年に独立し、「原綿を輸入しませんか」と声をかけられて、アメリカでコットンをオーガニック栽培しているファーマーに会いました。そのとき「あぁ、こんなにいいものがあるなら、広めなきゃ」と、すとんと腑に落ちたんです。私の使命ってこれだったんだ、と自然と納得できました。本当のオーガニックにはウソがない。ウソがないと無理がない。無理がないものは長く続くんです。どうせやるなら、気持ちのいいことがしたいじゃないですか。
いまは、日本のコットン製品に占めるオーガニックコットンのシェアを現状の0.7%から10%まで広げることを目標にしています。そして、オーガニックコットンと言ったらアバンティ、アバンティといったらオリジナルブランドのPRISTINE(プリスティン)というように知名度を上げて、「メイドインジャパン」のオーガニックコットンを世界に輸出し、日本の技術を発信していきたいんです。日本のメーカーは本当に素晴らしい仕事をしています。その事実を、オーガニックコットンを通じて表現したいと思っています。
オーガニックコットンなんて、22年前はまったく知られていませんでした。「ここまで来るのに、大変なことがいろいろあったでしょう」とよく聞かれます。でもつらくて、わんわん泣いたという経験も、特にないんですよ。そこまで真剣に考えていないのかな(笑)? いえ、たぶんそうではなく、「つらい!」「かなしい!」という状態にはまりこんで自分を痛めつけるのは、性に合わないんです。代わりに自分を褒めたたえてきたの(笑)! そうじゃないと、やってこられないですよ。
とはいえ、お金がないのは大変でしたね。独立してから3年はものすごく貧乏で、姉夫婦の家に居候していたんです。朝から晩まで働いて、タクシーは使えないから必ず終電で帰る。そんな毎日でした。その家を出るときに、3年間の家賃を払うお金がなかったから、金の延べ棒を差し出したのも、今となってはいい思い出。会社員時代に購入しておいた、唯一の財産だったんですよ。姉夫婦はびっくりしていましたね(笑)。最初のうちは、自分のお給料まで、なかなか捻出できなかったんです。社員のお給料を遅延する訳にはいかないでしょう。取引先にも、どんなに苦しくてもいつも現金払いを心がけていました。やっぱり、お金が信用をつくりますからね。
2年前にNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組に出させてもらいました。最初、番組のディレクターは、私のやっていることに懐疑的だったそうです。「"社会起業家"らしいけど、なんだかうさんくさくないか?」って。そして、私が、世のため人のためみたいなきれいごとばかり言うのだろうと思っていたとか。でも、最初の面談でオーガニックコットン事業をやっている理由を聞かれたとき、私が、「お金のためです。ビジネスですから」と、きっぱり答えたことに納得して、取り上げてくださったんです。私は、ビジネスをやるからには、儲けなければいけないと考えています。でもそれだけでなく、儲けたお金に対して、愛のある使い方をするのが大事なんです。
ディレクターさんが考え方に共感してくれたのはわかったのですが、1億2千万人もいる日本人の中で、なぜ私を取り上げてくれたのかは、その後もずっと不思議だったんですよね(笑)。そこで、撮影も終盤に入った頃、理由を聞いたんです。そうしたら、彼が「先物買いです。渡邊さんは、これからもっと大きな仕事をする人だと思うから、その期待を込めて」と答えてくれました。この言葉は、今でも大きなエネルギーになっています。
この思いは、3.11の東日本大震災の復興プロジェクトを立ち上げたことにもつながっています。仏教用語で「代受苦者」という言葉があるのですが、あの震災では、東北の人たちが私たちの苦しみを代わりに受けてくださったように感じられてなりませんでした。それに対して、私が返せるのは、現地に仕事をつくることなのではないかと思ったんです。
私は生きることとは仕事をすることだ、と考えています。私自身、仕事からたくさんの生きがいを得てきました。それを一瞬にして奪われた被災地の方々を思うと、居ても立ってもいられなかった。そこで、「 東北グランマ 」のプロジェクトを発足しました。被災地のお母さんたちに、オーガニックコットンを使ったものづくりをしてもらうのです。昨年は、岩手県2地域、宮城県2地域で、クリスマスのオーナメントをつくって販売しました。
今度は、福島オーガニックコットンプロジェクトとして、綿花栽培の「農業」、織物の「工業」、そしてそれを売るまでの「産業」をつくっていこうとしています。きっと、長い時間がかかるでしょう。でも、それが私が80歳、もしくは死ぬまでに、天命として授かったことなんだと思っています。