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2009年11月号 アラ還暦を生きる人生は60歳から第3回 思いを込めてことばを語りつづける フリーアナウンサー・有限責任事業組合 ことばの杜 代表 山根 基世さん

「アラ還(還暦=60歳前後)」の方々にお話をうかがうシリーズ「『アラ還』を生きる」。第3回は、現在フリーアナウンサーとして活躍され、有限責任事業組合「ことばの杜」の代表でもある山根 基世(やまね もとよ)さんのインタビューをお届けします。アナウンサーになったきっかけ、NHK時代にぶつかった大きな壁とそれを乗り越えた経験、退職後に設立したことばの杜での活動など、山根さんのアナウンサー人生と、ことばに対する思いを語っていただきました。

母親の思いを受け、女性が長く働ける職場を選ぶ

大学卒業後、NHKに入局し、アナウンサーの職に就かれました。
その理由をお聞かせください。

山根   学生時代から、卒業後は経済的に自立して、生計を立てていきたいと考えていました。当時は就職しても、結婚すれば仕事を辞めるのが一般的だった時代でしたが、私は女性が長く働くことについて、何の疑問も持っていませんでした。それは母の影響が大きかったと思います。母は東京に出て勉強したかったのに、兄弟の中で女であるというだけで自分はそれが叶わなかったことを生涯の痛恨事と考えていました。ですから、私に対して「勉強して、自立すべきだ」という思いを強く持っており、私もそれが当然だと考えていました。

 その頃、女性が長く働ける職場は非常に限られていたのですが、NHKは制度的には男女の差別はありませんでした。そこで、NHKのアナウンサーをめざしました。当時相談した知人に、ディレクターよりもアナウンサーの方が女性の仕事が多いだろうと言われたので。けれども、数年前、ふるさとで朗読会があった時に、同級生から「あなたは小学校の給食の時間に朗読をやっていて、将来、アナウンサーになりたいと言っていた」と言われました。そのようなことが意識の底にあってアナウンサーを選んだのかもしれないと、今は思っています。

働くなかで、たびたび「男社会の壁」にぶつかったと著書に書かれています。

山根   私は、大学を卒業するまでは女性に対する差別というものを直接体験することはあまりありませんでした。しかし、NHKに入局した年に京都の造り酒屋さんを取材した際、とてもショックな体験をしました。同年代のディレクター、大先輩のアナウンサー、共に男性の2人と一緒に取材先を訪れたのですが、お茶を運んできた女性がお盆を置いて部屋に入ろうとしたら、造り酒屋のご主人が「あんた、そこでええよ」と言い、私の方にあごを向けて、「後はあんたやって。そのために来たんやろ」と指示したのです。私は呆然として、何を言われたのか瞬時には理解できませんでした。しかし、同行していた同僚たちは何の反論もしてくれません。私は呆然としたままお茶を配ってしまった。なぜあの時「私は取材に来ています」と言えなかったのか、今思い出しても悔しくてなりません。私の最初の差別体験でした。

  また、当時のNHKのニュース番組は大先輩のアナウンサーと、まだ若い女性アナウンサーが組むというスタイルでした。私が7時のニュースを担当していた時に、デスクが「きょうは女用のニュースがないなあ」と言うのです。女用とは桜が咲いたとか、祭りがあったとか、添え物のようなニュースのことです。そこには、女性はあくまでも補助的だという考え方が色濃く反映されていました。

苦しみのなかでつかみ取った、自尊心の尊重と自分のことばの大切さ

アナウンサーとして、どんなことを意識して、仕事をされてきたのでしょうか。

山根   アナウンサーの仕事には男女の間で大きな差はなく、アナウンスメントの技術が高ければ、評価されます。そこで、いかにして高い技術を身につけるかが大きな課題になります。アナウンサーはきちんと読める、聞ける、司会ができる、中継ができるなどのアナウンスメントの技術を持つ専門職でなければなりません。でも、入ったばかりの新人の私にはそんな技術はありません。3行ほどのコメントで何回もとちったり、ディレクターからは「下手だなー」と吐き捨てるように言われたり。専門性を持たない専門職ほど、みじめなものはありません。当時の日記を見ると、「この頃よく死にたくなる」と書いているくらいです。そこで、必死にアナウンサーとしての技術を磨くための努力を続けていくうちに、入局後10年ぐらい経つと、なんとか格好がつくようになりました。

中堅になると、専門性だけでは解決できない課題も出てきますね。

山根  そこで、立ち現れてきたのが「組織の壁」です。私は入局20年目の1991年から93年まで、働く女性向けの「はんさむウーマン」という番組のキャスターを務めました。その制作チームは10人ほどで、私とチーフプロデューサーが一番年上で、私自身「働く女性とは私のことです」という自負もあり、リーダーシップをとるべき立場にいました。離婚、夫婦別姓、セクハラ、介護などがテーマで、どう番組を作るかスタッフと議論するわけですが、うまくいかない。2年間、本当に悩み、苦しみました。

  そのなかで、その後の仕事で大変役立つ、ふたつのことを学びました。ひとつは、人は誰でもその胸に「自尊心」という一匹の虫を飼っているということです。だから、誰もが誇りを傷つけられたら、悔しいし、悲しい。人を大切にするということは、その人の自尊心を大事にすることなのだと思うようになりました。もうひとつは、いくら志を持って何かをやりたいと思っていても、それを伝える「自分のことば」を持っていなければ、やり遂げることはできないということです。相手の心に届く「自分のことば」を持つことが、リーダーシップを発揮し、スタッフの力を結集するために、欠かせないと考えるようになりました。

ことばを育てることで、子どもたちの社会性を養う

その後、2005年には全国のアナウンサー500人のトップであるアナウンス室長に
就任されました。

山根  アナウンサーは専門性の高い集団ですが、その割にはNHKの組織の中での評価は高くありません。ディレクターの指示どおりに動けばよいとする意識も一部ではいまだにあり、それはとても理不尽だと感じていました。アナウンス室で言えば、女性アナの異動の問題が気になっていました。男性が頻繁に異動しているのに、女性はほとんど異動せず、東京に集中している時代がつづきました。男性は東京に来るチャンスが少なく、やる気を失ってしまいます。また女性にとっても、地方局でしか得られない体験をする機会を奪われているわけで、女性アナが増えた今、女性も男性と対等に仕事をするのなら、異動も引き受けるべきだろうと思っていました。

  そこで、経営職の経験はありませんでしたがアナウンス室長を引き受け、在任中はアナウンサーの評価を高めるためにさまざまな挑戦をしました。海外特派員を出したり、子どものことばを育てる社会貢献をしたり。女性の異動については、女性室長の私の間に道をつけておきたいという気持ちで取り組みました。この時、「はんさむウーマン」での体験が活きたようで、アナウンス室3役に実によく助けてもらいました。

子どものことばを育てる社会貢献は、定年退職後に設立された「ことばの杜」の活動にも関わってくるのでしょうか。

山根   大きく関わっています。このような活動は、アナウンス室長にならなければ、考えもしなかったと思います。2005年、NHKの受信料収入がどん底に落ち込んだ時、視聴者の信頼回復のために、各部署で何ができるかを考えました。その頃、子どもたちが一瞬の激情にかられて引き起こす、殺人など取り返しのつかない事件がたくさんありました。その背後には、子どもたちが自分の気持ちをことばでうまく表現できなかったり、周囲の人とことばで関係を築くことができないなど、ことばの力の弱まりがあると言われていました。

  NHKのアナウンサーは日本の話しことばを担ってきた集団です。そこで、子どもたちの話しことばを育てることに積極的に取り組むことは社会貢献になるし、信頼の回復にもつながる。そう考えて、子どものことばを育てる番組を作るという方針をアナウンス室として打ち出しました。番組作りに入ったのは、室長2年目で、定年まで1年しかありません。そこで、「後はよろしくね」と辞めてしまうのは卑怯だと考え、定年後も外から支える仕組みとして、「ことばの杜」を発足させたのです。

目標は、誰もが自分らしい人生を送ることができる社会

40年近いアナウンサー人生と現在の「ことばの杜」の活動を支えてきたものは何ですか。

山根   アナウンサーとして「ことば」を職業にしている私は、できるだけ抽象的、観念的なことばを使うのは避けてきたつもりですが、「民主主義」だけはお経のように唱えてきましたね。ある時、年下の女性から「民主主義が一番だと思ったら大間違い」と言われてショックを受けたことがありますが、私の考える民主主義というのは何も大上段の大げさなことじゃなくて、「誰もが自分らしいと納得できる、幸せな人生を全うできる世の中をつくること」です。

  女性が周りに言われるままに生きていれば、何の壁もありません。ところが、自分らしく生きていきたい、こんなことをやりたいという志を持った途端に、目の前に大きな壁が現れます。それは今も昔も変わりません。私自身も体験してきましたが、世の中には、その何十倍、何百倍もの苦しい思いを抱えてきた女性たちがたくさんいます。そうした人たちの思いをきちんと伝えることも放送の役割ではないか。それによって、1ミリでもより良い方向に世の中を動かすことができるかもしれない。「はんさむウーマン」の頃からそう考えるようになりました。

  そうしたなかで、1997年には、コツコツと貯めた全財産を投げ打って「銀の雫文学賞」を創設した雫石とみさんを取り上げた番組を作りました。雫石さんは極貧のなかに生まれ、1945年の東京大空襲で家族全員を失った、天涯孤独の人です。敗戦後、収容された婦人保護施設で虫けら同然の扱いを受けたことから、日記を付け始め、それまで全く無縁だった読み書きが彼女の生きる支えとなりました。私は、彼女の苦しさや思いを伝えたいと番組を作りました。アナウンス室長を経て、現在のことばの杜にいたるまで、私のそうした取り組みは一貫してつづいていると言えるのかもしれません。

定年までの経験を活かして、その技術や知識を社会に役立てる

山根さんにとって、団塊の世代とはどのような世代でしょうか。また、何を期待しますか。

山根   私は昭和30年代初めの、民主教育のための教師たちの闘いを描いた石川達三の小説『人間の壁』に深く感動して、民主主義や教育について考えるようになりました。団塊の世代は、私と同じように戦後民主主義教育の申し子のような人が多いのではないでしょうか。ただ、皆それぞれに、青春時代にできなかったことや、若い時には恥ずかしくて口に出せなかったことがたくさんあると思います。さまざまな経験をして還暦を迎えた今、団塊の世代が語ることばには若い頃よりも力があるはずです。そうした思いを込めて、自らのことばを語る時期が来ているように思います。

  昨年、96歳になる映画監督、新藤兼人さんが自分の小学校時代の恩師をモデルにした『石内尋常小学校 花は散れども』という映画を作りました。新藤さんは恩師について、「どうということを言っていたわけじゃないんですよ。ただ『うそを言うちゃあいけん』というような当たり前のことを言っていただけなんです」とおっしゃっている。ところが、新藤さんはそれをとても偉大なことだと受けとめている。そのことばが、監督がうそをついたら俳優は絶対についてこないという、彼の信念になっているのです。当たり前のことでも、自分がこうだと思ったことを言いつづけていくことは本当に大切だと思います。

退職した人や定年退職を控えている人で、仕事をやめても社会とのつながりを持ちたいと考えている人はどうすればよいとお考えですか。

山根   どの会社、どの仕事でも、社会的な役割があると思うのです。そうすると、これまで働いてきたことは、仕事というレベルにとどまらず、その人が生涯をかけて取り組むテーマになりうるのではないでしょうか。例えば、美容師さんが寝たきりのお年寄りの家に行って、髪の毛を切るとか、街の電気屋さんが高齢者の家の御用聞きをするとか、自分の仕事の延長線上で、社会に役立つことがあるはずです。

  定年までの30~40年間、会社に勤めていれば、さまざまな知識や技術が得られます。それを定年になった時に、会社は会社、自分の人生はそれとは別にあると考えてしまうのはもったいないような気がします。ですから、それぞれに得た貴重な経験を、今の世の中に足りないものや、あってほしいものを作り出すために役立てていく。そうした挑戦をすることが今、求められていると思います。

山根 基世(やまね もとよ)


 

フリーアナウンサー・有限責任事業組合 ことばの杜 代表
1948年山口県防府市生まれ。1971年NHKに入局。「関東甲信越・小さな旅」「はんさむウーマン」「新日曜美術館」「ラジオ深夜便」などを担当。2005年6月に、NHK初の女性アナウンス室長に就任。2005年大晦日の第56回紅白歌合戦の総合司会を担当。2007年定年退職後、LLP(有限責任事業組合)「ことばの杜」を設立し、代表となる。著書に『「ことば」ほどおいしいものはない』『ことばで「私」を育てる』(講談社)など。
ことばの杜


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