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わたしのふるさと

わたしのふるさと What is FURUSATO for you? わたしのふるさと What is FURUSATO for you?

誰しも生まれた地、育った地があります。ずっとその地で過ごす人、進学や就職を機に離れる人、転々とする人。
縁ある土地とのつき合い方は人それぞれです。「第二のふるさと」「心のふるさと」という言葉があるように、「ふるさと」は、生まれ育った地とも限らず、もしかすると、物理的な土地とすら結びつかない、その人にとって大切ななにかがある場所とも定義できるかもしれません。
あなたにとって「ふるさと」は、どんなものでしょう。

2ジュリアーノナカニシさん

広島県広島市生まれ広島市育ち→福岡県福岡市→
東京都在住

広島県広島市生まれ広島市育ち→福岡県福岡市→東京都在住

ジュリアーノナカニシ

EXAPIECO代表・グラフィックデザイナー

1964年広島県生まれ。10代は自転車競技三昧で、世界選手権10連覇の競輪選手、中野浩一氏が憧れの人だった。競技の道を断念して進学した大学では、芸術学部でビジュアルデザインを専攻。卒業後に上京し、広告デザイン事務所を数社渡り歩く。1996年インターネットの登場からWebデザインに傾倒。1997年に独立。
20代は広告デザイン、30代はWEBデザイン、40代は編集デザインが仕事の中心で、「日本で最も美しい村」新聞発行中。趣味(というより生き甲斐)はサイクリングと広島東洋カープ観戦。

EXAPIECO公式サイト

個性的な父の下、自転車競技に青春を捧げた広島スポ根時代

高校までスポーツしか知らない子でした。自転車競技の強豪校に進学し、朝4時半から夕方6時まで練習漬け。常に丸刈り、ジャージです。もともと父にそそのかされて始めました。日本のプロスポーツの中で一番稼げたんですよね。だから息子をプロにして、自分がマネージャーになろうとしてたんですよ。男子高同然の工業高校は、猛獣の監獄みたいなところでした(笑)。練習はつらかったですよ。父の誘導はあったとはいえ、僕自身も憧れて進んだ道です。本当に一生懸命でした。でも、結局、競技で抜きん出ることはできませんでした。性格的に競うことが得意ではなかったし、短距離競技者としてはスピードに欠けて、長距離のほうが向いていたようですね。自転車自体はいまも大好きですよ。

父は個性的でおもしろい人です。父方の祖父は広島の人ですが、戦中は仕事で韓国のソウルに住んでいました。日系だけど生まれも育ちもハワイで日本語がおぼつかなかった祖母とソウルで結婚して、戦後ふたりで引き上げてきたんです。戻った広島でなかなか食べてゆけなかった祖父母は、今度はアルゼンチン移住を検討したんだそうです。父は、当時米軍キャンプがあちこちにあった広島で英語を覚えたり、アルゼンチン移住に備えてスペイン語も学んだり。昔から、見ず知らずの外国人に臆せず話しかけに行くような性格だったんですね。外国人大好きだったみたい(笑)。母はそんな父に輪をかけて社交的で自由奔放なので、僕は親の割に控えめなほうです。

バブルの始まりを過ごした、福岡「酒とバラの日々」

高校時代、毎日通ったバンク(広島競輪場)にて、レース中の一枚。自転車競技人口はこのころがピークだったそう。

高3のインターハイのあと、競輪の道は無理だとわかった時点で、父が今度は「デザイン科に進学しないか?」と言ってきたんです。すごい方向転換ですよね。そのころスーパーに勤務していた父は、店舗づくりにも芸術センスが必要だと考えていたようです。ところが採用の募集をかけても芸術系の学生は来てくれなかったことからピンときたらしい。ちょうど景気がバブル経済に向けて上向いていた時代で、息子の将来のためにも、デザインやっとくのはいいぞ、と思ったんでしょう。僕も僕で特に抵抗もなく、「そうかな」なんて思ったんですよね。素直なんですかね。

大学進学を機に暮らし始めた福岡はとても住みやすかったです。適度に都会で、自然も残っていて、食べ物は安くておいしかった。人も、広島とは違うように感じて新鮮でした。角刈りの親父さんたちが威厳を持っている感じがしましたね。あと、九州中から美人が集まってきている街です。僕も後にそのひとりと結婚しました(笑)。福岡時代は、なんというかもう、「酒とバラの日々」です!完全に、高校までの反動ですよね。大学デビューですよ。当時はまだ珍しい、金髪のロン毛でした(笑)。時代の勢いで広告業界はイケイケ。毎日のように先輩や仲間と飲み歩き、デザインやイラストについて熱く語り合いました。デザインの世界にのめり込んでましたね。そんなふうでしたから、いくら福岡が好きでも、東京に出ることに迷いはなかったです。

東京に30年。広島東洋カープを通じて、ふるさと愛が覚醒!

東京に暮らして30年以上が経ちました。思うところあり僕の会社で「日本で最も美しい村」新聞を発行し始めて、取材では日本中のいろんな町村に出かけました。長野県の中川村や高山村をはじめ、住んでみたい場所はいくつも挙げることができます。東京が嫌だなぁと思うこともありますよ。隣人に無関心だとか、コミュニティがないとか。仕事をする場所なんだなとも思っています。だけど東京の人は総じて好きです。いろんな人と出会えて、いろんなチャンスがあるのが東京のいいところですね。ネット社会になったとはいえ、イベントも多いですし、得られる情報量にはやはり格段の差があると思います。

広島のことはずっと、ぜんぜん好きではなかったです。単に生まれ育った場所だと思ってました。ところが40歳を過ぎたころでしょうか、地下鉄で広島弁が聞こえてくるとやたらうれしくなることに気づき始めて、生まれも育ちも東京のふたりの娘に、ルーツとしての広島を伝えたいと思うようになったんです。手始めに広島東洋カープの観戦でもと、家族で連れ立って神宮球場に行ったのは、カープがまさにどん底のとき。娘ふたりはまだ小学生でした。これがきっかけで、娘だけでなく僕もどんどんカープファンになってゆき、それに伴い広島愛がふくらんだんです。

カープについては、いまとなっては生活の中心です。なんでもカープ次第。カープが勝ったらなんでもいい!それに、相手がカープファンというだけで仲良くなれてしまう。実際、仕事でも、気が合わなくて、2〜3年もの間必要なこと以外会話もしなかった相手がカープファンだとわかったとたん、ハグし合う勢いで意気投合して仲良くなった経験があります。それもふたり(笑)。市民球団ですからね、ほかの球団とは愛情が違うんです!カープを介して、広島との距離もぐんと近づきました。

帰る場所があるから遊びに行ける

ジュリアーノさんのデザイン事務所が入居するのは世田谷区のIID(Ikejiri Institute of Design)世田谷ものづくり学校。2004年に廃校になった旧池尻中学校の教室が、クリエーターを中心に利用されている。

改めて振り返ると、広島という地で生まれ育ったことが、意識せずして自分のアイデンティティに大きく関わっていたんですね。デザインの仕事も長くなりましたが、子どものころ釣りに出かけた、あの、瀬戸内海の空と海との微妙な色のトーン、ぼんやりと明るい色調や穏やかな光が、感性に強い影響を与えていたと思います。あの景色の中にいると、怖い気持ちがしなくって、どこかのどかな気質なのは、そんな、自分にとっての原風景によるところが大きいと思うんです。

それから、被爆地であることでの平和への思い。自分の子どもたちにも、もっと広く世の中に対しても、広島の持つ平和へのメッセージを継いでゆくためになにかしたいと思う気持ちは、ずっと変わらず持ち続けてきました。広島に生まれ育った者として、やはりこだわるべきだと思っています。この先Uターンすることはないかもしれませんけれど、広島はいまも、安心して帰れる場所。帰る場所があるから遊びに行ける、そんな、僕のふるさとです。

ふるさとのお気に入り

広島

byジュリアーノナカニシさん

  • 広島東洋カープ

    録画しまくって、もちろん全試合観てます!夢中になりすぎて呆れられ、ときどき妻と気まずい…。

  • 小鰯(こいわし)

    広島というとお好み焼きのイメージでしょうが、沿岸で夏と冬に獲れる小鰯、あれも我らのソウルフードです。昔はおばちゃんが台車引いて売りに来て、三枚におろしてくれました。刺身も天ぷらも最高。鰯といえば小さいのが当たり前だったので、東京で真鰯を見たときはグロく感じました(笑)。

  • 平和のメッセージ

    子どものころから染みついた、県民のアイデンティティですね。子どもたちに伝えてゆきたい気持ちが強いです。

編集後記

ご両親とご自身とのキャラクターのギャップ、高校時代、大学時代、そして現在とのギャップ、日頃のファッションとカープのユニフォーム姿とのギャップ。実は寡黙な印象のジュリアーノさんからは、いろんな意外性が飛び出してきて、こちらもくるくると感情を動かしながら楽しくお聞きしました。教育が成功し(笑)共にカープファンというふたりの娘さんのうち、おひとりは自然、アウトドア大好きのローカル志向で、おひとりは毎日でも六本木ヒルズの美術館に通いたい都会志向だそうです。次世代のおふたりのふるさと観は、どのようになってゆくのでしょうね。

(取材・文:小林奈穂子)