こくみん共済 coop の公式ホームページお問い合わせ全国の窓口関東統括本部 公式ストーリー自分は1人ではない。家族のサポートに、前向きな気持ちで応えたい

自分は1人ではない。
家族のサポートに、前向きな気持ちで応えたい

静岡県在住
Y.O
さん [45歳]

PROFILE
2013年11月現在、求職中。気管支ぜんそくと、手が震えてしまう本態性振戦という病気を抱えながら、復職を目指して就職活動をしている。

18歳から働きづめの毎日、でもそれが当たり前だと思っていた

 高校卒業後すぐ、18歳のころから、浜松市の中央市場でマグロの“競り人”をしていました。荷主さんから受け取ったマグロを、仲卸業者や商社に売る仕事です。朝が早く、マイナス40℃の冷凍庫を開けながら作業を行ったり、高値で買ってもらえるよう粘り強く交渉したり、体力的にも精神的にもハードでしたが、とてもやりがいを持っていました。
 あれは20歳を過ぎたころ。仕事中に突然、呼吸が苦しくなりました。そう、ぜんそくです。それまでぜんそくの症状はなくても、無理をすると症状が出るケースもあるそうです。
 結局30歳前に、今の環境では病状は改善しないと判断し、約11年続けた競りの仕事を辞めることに。その後、いくつかの職業を転々として、35歳でタクシー会社に勤めることになりました。
 タクシー会社では、4~5年ほど運転手を務めたあと、新人教育と運行管理を任されるようになりました。運行管理というのは、「どの場所にどの運転手(車)を手配するか」といった、会社全体の運行を取り仕切る仕事です。体力的にはつらい仕事でしたが、ぜんそくを抱えながらも、なんとか過ごしていました。

ぜんそくに加え、新たな病気まで。私を追いつめた、ジレンマ

 異変が起きたのは2012年の5月ごろ。浜松では毎年ゴールデンウィークに「浜松まつり」という大きなお祭りが開催されます。その時期タクシー業界はいわゆるかき入れどきで、なんとかこの繁忙期を乗り切ろうと無理をしたのがいけませんでした。以前にも増して強いぜんそくの発作が出て、2週間ほどの入院を余儀なくされました。入院時は、以前加入していたこくみん共済の共済金が出て助かりました。やがて、ぜんそくが落ち着いて、退院の手続きの書類を書こうとしたとき、違和感に気づきました。手が震えて、思うように字が書けないのです。「なんだろう? まぁ、気のせいかな」。ところが会社に行っても、やはり字が書けません。
 神経科や精神科にも通った結果、「本態性振戦」という病気だと診断されました。この病気は、ある動作をしようとするときや、一定の姿勢を保とうとしたときに、手や腕、頭などが震えてしまう病気です。私の場合は手が震える症状で、字を書く作業や箸を持っての食事が困難になってしまったのです。
 本態性振戦は、薬を処方すれば一般的には2~3ヵ月で治る病気だとされています。

 ただ、私は例外でした。本態性振戦に効くはずの特効薬が、実は副作用として気管支ぜんそくを引き起こす性質を持っていたのです。そして2013年の1月に入院。ぜんそくの治療を行いつつ、本態性振戦の薬は飲めないため、リウマチに効く薬など、別の薬を試しました。ここでも共済金がおりて助かりました。実は入院中、1日だけ外泊許可が出た際に、出先でノロウイルスに感染してしまいました。そのため、予想外に入院が延びましたが、毎日の入院費を保障でまかなうことができました。

家族の支援に応えるためにも、自分のチカラで生活できるように

 入院中、母が毎日見舞いに来てくれました。煮物などの食事を毎日差し入れしてくれるのです。あと、私には1人兄がいます。兄は仕事があるので病院にはあまり顔を出しませんでしたが、資金面でバックアップしてくれました。
 家族は気持ちの面でも支えてくれています。例えば、「外食に行こう」と誘ってくれることです。外食には非常に抵抗があります。手がどうしても震えてしまい、まるで幼児のように、食べ物をこぼしながらの食事になるからです。コップも両手で持たないと支えていられなくて、飲むのも不自由でした。 「周りの目なんか気にしなくていい。私たちは大丈夫だから。家の食事ばかりでは飽きるでしょう、たまには外食に行こう」。そう、言ってくれるのです。誰が一番心配してくれるかといえば、やはり家族なんですね。いつも親身になってくれています。
 2013年2月に退院してからも1人で暮らしていますが、ごはんを炊き、野菜炒めや味噌汁くらいは作ることができます。でも包丁は恐くて握れないです。本態性振戦はその日の体調によって震えの程度が異なりますが、調理中、包丁で指を少し切ってしまうこともよくありました。
 今は、きちんと自分1人で暮らしていけるように、仕事を探しています。家族の支えがあるから、応援してくれているから、その気持ちに応えるためにも、ふさぎこんでなんていられません。重労働は無理ですが、事務職や守衛の仕事など、私にもできることがあるはずです。医師が、「こういう職務なら差し支えはない」という文書を出してくれると言ってくれたことも、大きな励みになっています。
 ぜんそくも本態性振戦も、なってしまったものは仕方がない。一生付き合っていくつもりで受け入れて、それでも前を向いて生活しようと決意しました。正直心が折れそうになったこともありましたが、やはり家族が支えてくれるから、負けるわけにはいきません。
 今まで普通にできていたことが、できなくなる病気との闘い。今の夢は、症状が悪化しない程度に抑えながら普通に仕事をして、普通に定年まで働きたい、ということ。家族が私にしてくれた恩を私は返すことができないかもしれませんが、せめて「自分のことは自分でやる」。そんな普通のことでも、せめてもの恩返しになればと思っています。

当たり前だけど、命、そして健康を大切に。周囲の人のことを思い出して

 世の中には、自ら命を絶ってしまう人がいます。でも、当たり前ですが、絶対に命を粗末にしてはいけません。自分のことを思ってくれる人、助けてくれる人がいるからです。日本人は働き過ぎと言われます。難しいかもしれませんが、やはり「無理はしないで」と言いたいですね。大丈夫と思っていても、病気は思わぬ形で、突然身体に襲いかかります。ストレスをどこかで抜く、解消するだけでも違うと思います。やはり、健康が第一です。

編集後記

 日常生活にも支障を来す病気を抱えながら、それでも前を向き、職場復帰を目指すY.Oさんの強さ。そして、Y.Oさんがおっしゃる、「健康第一」という言葉が、強く印象に残りました。私たち社会人の誰もが、「第一」という言葉の意味をきちんと考え、もう一度仕事に対する姿勢、生活に対する姿勢を見直す必要があるのかもしれないと感じました。