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まだまだやりたいことだらけ!
人生を楽しく生きる秘けつは“ポジティブ&欲張り”です。

武藤 宏子さん

茨城県在住
武藤 宏子
さん [73歳]

PROFILE
33年間、保険のセールス業に従事し、63歳で退職。現在は趣味のゴルフのほか、フィットネスクラブに通い、水泳やヨガなどを楽しむ。市の集まりや団地のウォーキング同好会にも参加するなど、忙しくも充実した生活を送っている。

「これでもか」というほどの長い揺れ。東日本大震災で自宅が半壊に

 私の住まいは茨城県日立市です。2011年3月11日にはとても大変な思いをしました。あの日は、私の自宅からクルマで10分程の近所に住む長男の嫁が、1歳の孫と遊びに来ていました。他愛もない世間話も終った頃、私にかかってきた電話を合図に、孫をおぶった嫁が「じゃあ帰るね」と玄関を出ようとしたそのとき、突然激しい揺れが私たちを襲ったのです。そう、東日本大震災でした。
 これまでの人生では感じたことのないほどの強い衝撃でした。地響きとともに、とても恐ろしくて形容できない「家全体が揺れる音」を耳にしました。私は急いで相手に断って電話を切り、すでに嫁と孫が潜り込んでいたテーブルの下に身を隠しました。「これでもか」「これでもか」と言うかのように、揺れはどんどん激しさを増します。孫は、ただごとではないことを察知して泣き叫び、私は、「大丈夫よ、私がついているから大丈夫よ」と、嫁や孫に向かって必死に呼びかけました。ただ、今になって思えば、あの言葉は、「大丈夫、きっと大丈夫…」と、自分に言い聞かせていたのかもしれません。

 日立市の震度は6強でした。シャンデリアは居間の大きなテーブルの上に叩きつけられ粉々に。テレビも倒れて壊れましたし、食器棚も扉が開き、あらゆる食器がテーブルや床に落下して割れてしまいました。なにより、家そのものにも損壊があったことが、これまで経験してきた地震とは大きく違いました。2階の壁はひび割れ、そして、庭の池も大きく亀裂が入り、今もなお、震災の傷跡としてこの家に残っています。

ガスも電気も水道も止まった当時。
家族の温かさ、絆を再確認した

 ようやく落ち着いて外に出ると、近所の方々から「屋根がやられているよ」と教えてもらったのですが、瓦が崩れ落ちて、悲惨な有様でした。こうなると、雨漏りが心配です。
 近くの大久保町に住んでいた次男が駆けつけてくれ、屋根に登ってシートをかぶせて応急処置をしてくれました。
 家は日立市の高台にありますが、庭にある池は特に被害が大きく、生け垣が崩れ、我が家より低いところにある小学校に被害を出さないかと心配で、すぐに市役所の人に見に来てもらったところ、「半壊」と認定されました。
 地震が発生した当日の夜は、ガスも電気も水道も止まり、長男夫婦の家に、私と次男夫婦が集まりました。
 3家族が各自宅にある食料を持ち寄り、1週間分くらいの食料になったので、ホッとしたものです。プロパンガスのボンベがあったので調理も困りませんでした。やはりこうした日頃からの備えは必要だと、ひしひしと感じたものです。
 また、私の故郷、岐阜県の親戚から野菜や水を送ってもらいました。長男の1歳の孫にミルクをあげる必要があったので、水は非常に助かったことを覚えています。
 普段は同じ県内に住んでいる息子家族とですら、「近いのに意外と会わないから疎遠なものだわ」なんて思っていたのが、震災を通じて、「こういうときこその家族なんだ」「助け合いは大切」と改めて感じました。

つながっているのは家族や親戚だけではなかった

 震災で家族や家を失った東北の方々のことを思うと、胸が張り裂ける思いです。深い衝撃を受けたせいか、全労済の火災共済に入っていたことはすっかり忘れていて、全労済に連絡したのは4ヵ月後の7月になってからでした。最初に電話すると、「書類を送るので必要事項を記入して返送してください」とのこと。すると、思っていたよりも早く共済金が振り込まれていたので、素早い対応に驚いたものです。

 市役所から半壊の認定が出ていたため、すぐに申請が受理されたようなのですが、それにしても対応がスムーズで嬉しかったです。おかげで、今は自動車の保障も全労済にお願いしています。共済金のおかげで、損壊したキッチンや屋根など修繕できました。
 今も震災の爪痕が残るこの家で、私は一人で暮らしています。あの日の痕跡が残るこの家に暮らすことで、まだ震災の被害で苦しんでいる人がいることを忘れないように、と思っています。

とにかく「前向き」が私の信条。親孝行の気持ちを忘れず、これからも元気に

 実は私が34歳のときに、主人と死別しました。1976年のことです。主人は電機メーカーの職員で、中国へ出張していたときに、唐山(とうざん)地震という、20世紀最大規模とも言われる地震に遭遇したのです。私は30歳のときから保険のセールスをしていましたが、そのときは約4ヵ月間、仕事が手につきませんでした。でも私は一人ではなく、3人の子どもを育てていかなければなりませんでしたし、上司たちに支えられたこともあって、なんとか職場復帰し、63歳まで33年間勤めました。ですから、助け合いの気持ちや万一の際に備えることの大切さは常に感じています。
 もともと、とても前向きな性格であることも、人生の大きな支えになっています。これは、両親から受け継いだ、大切な性分。母は健在で今年で96歳ですが、親孝行になればと、週1回、現在母が住んでいる下館で一泊しています。母との触れあいが、今の私の生き甲斐ですね。
 仕事を辞めてからは、中国に留学し、日本へ留学しようとしている中国人に日本語を教えるボランティア活動を行っていました。そして今は、週に約1回はゴルフへ行き、4日くらいはフィットネスクラブに通い、プールやヨガ、エアロビクスなどで汗を流しています。
 私は前向きなうえにとっても欲張りで、やりたいことがいっぱい。旅行やクルマの運転も好きなんです。今はフィットネスが楽しいので実行できていませんが、マイカーで日本を縦断する夢を叶えたい。そしてもし脚が悪くなっても、シアタールームを造ったりして、映画を楽しみたいですね。
 過去を振り返ると、常に生きることに必死でしたが、前を向き、苦労を苦労とは思わず、楽しく頑張ってきたことが、健康につながっていると思います。これからも母や家族への感謝を忘れず、やりたいことに夢中になれる人生を送っていきます。

編集後記

 中国の大地震でご主人を亡くし、それでも女手ひとつで3人のお子さんを育てあげた武藤さん。東日本大震災の被害にもへこたれず、前を向き、自分の気持ちにまっすぐに向き合う生き様をうかがい、「なんて強い方なのだ」「こうありたい」と、心を打たれました。