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被災者・被災地の復興へ向けて―東日本大震災を乗り越えて

2014年には生産を震災前に戻し、より良質な海産物を生産する

JFおもえ重茂漁業協同組合 代表理事組合長 伊藤 隆一さん

  3月11日に東日本をおそった未曾有の大震災。地震と津波の甚大な被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による二次被害が震災をさらに深刻なものにしているのが現状です。
  こうした状況の下、私たちに何ができるのでしょうか。
  本連載では、東日本大震災の復興に向けた様々な取り組みやビジョンをレポートすることで、よりよい復興に対する理解と議論を深めていきたいと考えています。

津波で甚大な被害を受けながら、4月9日には漁を再開した岩手県宮古市のJFおもえ重茂漁業協同組合 代表理事組合長 伊藤 隆一氏に、漁協の概要、被害状況、漁再開の経緯、今後の展望などについて聞きました。

 

 

養殖わかめとこんぶ、うに、あわびを軸に漁業に取り組む

重茂(おもえ)漁協の概要をお話し下さい。


重茂漁協の位置

伊藤 重茂地区は岩手県沿岸部中央の南端に位置し、宮古湾を形成する形で、太平洋に突き出した本州最東端の人口1,700人余りの小半島です(図)。三陸特有のリアス式海岸の特徴を余すところなく備えた地域で、沖合は親潮と黒潮が交錯する絶好の漁場になっています。その中で、重茂漁協は1949年に設立され、2011年3月末日段階の組合員世帯数は413戸、全世帯の90%余りを占めています。昭和40年代初めまでは道路事情も悪く、漁船もないため、年間100万円の収入がある世帯は数えるほどという自給自足の貧しい生活をしていました。しかし、「七桁産業(100万円台の収入)を目指そう」とわかめとこんぶの養殖を始め、それが成功したことから、その後、多くの組合員が1,000万円以上の収入を得るようになりました。そして、現在では養殖のわかめとこんぶ、うに、あわびを中心に、天然わかめや定置網による鮭漁も含めて、漁協全体の海産物の年間販売高は40億円に上ります。

  重茂漁協では良好な海産資源を保護するため、きれいな海を守る活動にも力を入れてきました。昭和50年代に、岩手県が実験で合成洗剤を使うと、あわびの稚貝が変形することを明らかにしました。そこで、宮古からの県道に「合成洗剤を絶対に使わないことを申し合わせた地区なので、ご協力下さい」という看板を立て、漁協女性部を中心に、合成洗剤の追放運動に取り組みました。雑貨屋に置いてある合成洗剤は漁協で買い上げ、組合員の家からはすべて回収しました。そして、現在まで女性部の人たちが年に何回か組合員宅を訪問して、合成洗剤を見つけると回収する活動を続けています。

  また、2007年からは、青森県の六ヶ所核燃料再処理工場の稼働に反対する運動に、漁協を上げて取り組んでいます。再処理工場から核物質汚染水が海流に乗って流れてくれば、きれいな海が汚染され、大変なことになると、取引先の生協から教えてもらいました。そこで、「ヒロシマ・ナガサキ、第五福竜丸、JCO事故と、日本では3回も放射能で死亡者を出している。黙って見ている手はないだろう」と署名活動を始め、現在も続けています。

 

800艘の舟を喪失するも、舟の共同利用で4月上旬に漁を再開

今回の津波の被害について教えて下さい。


重茂半島への入口にある看板

伊藤 重茂半島には重茂漁港、音部漁港という2つの県管理漁港と6つの市管理漁港がありますが、すべて破壊されました。また、あわびとこんぶの種苗生産施設、鮭のふ化施設、わかめ用冷蔵庫、わかめとこんぶのボイル及び塩蔵加工を行う工場などもすべて流されました。さらに、舟は全部で814艘ありましたが、沖合で作業中だった14隻以外は沖に流されたり、陸地に打ち上げられたりして、壊滅しました。一方、1700名弱の住民の内50名、3%弱が亡くなり、住宅は全壊・流出が118戸、半壊12戸と、全住宅の28%余りが甚大な被害を受けました。漁家が生産活動をするには、舟以外に倉庫や漁具、こんぶの乾燥施設などが必要ですが、それらもすべて流されてしまいました。

被災後、中古船の購入などいち早く漁業の再開に向けて、
動き出したと聞きました。

伊藤 津波に襲われた翌日の3月12日から、道路が寸断されて外からの応援がない中、組合員と住民が総出で、がれきを撤去しながら、行方不明者を懸命に捜索しました。その中で、組合員から「生き残った我々はどうするんだ。何をするんだ」という声が出てきて、何もかも流されてしまった中で、若い人を中心に外に働きに出ようという動きが生まれたのです。1,700人しかいない重茂半島で、若い者が外に出て行ったら、村がなくなり、大変なことになります。ですから、外に稼ぎにいくことだけは何としても、防がなければいけないと思ったのです。

  色々思案している間に、がれき撤去に行った人が、舟が山に打ち上げられて壊れているのを見つけました。それで、修理すれば使えるのではないかという話になり、応急修理をして、使えるようにしました。そして、津波から1週間ほど経った頃には、費用は漁協で持つことにして、行方不明者が少ない集落の若い人たちが日本海側の地域に中古船を探しに、出かけました。行方不明者の捜索は3月いっぱい続けたのですが、日に日に「これから、どうするのだ」という声が大きくなったのです。そこで、「ともかく、舟を集めよう」とがれきの中から少しでも使えそうな舟を集め、購入した中古船も併せて、「何とか、いけるかもしれない」と判断したのが3月末でした。

  そして、4月9日には、組合員全員を漁協に集めて、「漁に出よう。サッパ舟(船外機を付けて乗る小さな舟)は足りないけれども、舟を持っている者だけが海に出て、収入を得ようとするのは間違いだ。皆で生きていかねばならないんだ」と話しました。それで、舟は全部漁協の所有物にし、買ってきた舟、修理費用は全て漁協が負担することにして、皆が共同で使い、漁を再開することに決めました。組合員も「それならいい。がんばっぺ」ということで、動き出しました。

 

隣近所手を携えて、皆の力で漁業を再興する

何から採り始めたのでしょうか。


津波によって全壊した漁港の施設跡

伊藤 養殖わかめがすべて流されたので、時期的に天然わかめが一番早く採れる海産物でした。通常は4月末から採り始めるのですが、遅い方が舟が多く揃うからと、5月に入ってから、70艘弱の舟を準備して、天然わかめを採りました。5人から7人で1艘の舟を使い、陸揚げしたわかめのボイルから塩蔵加工まで、すべて組合員がやるわけです。そこで、ボイル釜も流されたものを鉄工所で修理して使えるようにし、塩をまぶす作業も高台で流されなかった組合員の設備を共同で使うことにしました。特にボイルは手間がかかる仕事なので、「1漁家から何人出てきてもよい」ということにして、5-6人が舟に乗って沖に出てわかめを採り、お母さんたちがそれをボイルして、塩をまぶして加工しました。それを漁協が買い取り、船外機の油代や塩代などの費用を差し引いて、収穫量に関わりなく、作業に出た人に頭割りで、分けました。ほかに採るものがないし、皆が一生懸命働いたこともあって、今年の天然わかめは収穫量も販売金額も津波前を上回るものになりました。

その後はどうしたのでしょうか。

伊藤 わかめの後はウニですが、津波の影響でダメージが大きいだろうと判断しました。そこで、皆が自分の目で資源の状況を見てみようと、7月に1日だけ操業しました。実際に沖に出て確かめたら、やはり資源がなく、そのまま、漁は打ち切りました。その後、11-12月はあわび採りの時期ですが、採取個数を1漁家あたり130個に制限しました。舟が170艘あまりに増えたので、1艘に2人乗ることにして、予定通り採れたので、経費を差し引き、売上げを世帯割にして、分けました。

人によって、腕前に差があると思うのですが、不満は出ていないのでしょうか。

伊藤 組合員から、表だって異論は出ていません。あわびは水深10mほどの深さの海で、上から見て、さおの先でひっかけて採ります。そのため、視力やさおの使い方がものをいい、腕の良し悪しがはっきり出ます。ですから、特に腕達者な若い人たちは不満はあると思いますが、今の状況では自分だけ稼ごうとしても無理だと考えていると思います。このあたりの言葉に、「人は人中(ひとなか)」というものがあります。“自分一人では生きていけない。隣や前の家があって、日々の生活が成り立っている”ということなのですが、まさに皆、それを実感しながら、仕事をしているように思います。

  ただ最初から「舟がひとり1隻ずつ確保できたら、震災前のやり方に戻す」と強調しています。今のやり方をそのまま続けていると、競争意識がなくなり、漁協全体の活力がなくなってしまいます。ですから、舟が調達できるまでの間、隣近所手を携えてやっていこうということなのです。

 

「子孫に誇れる漁村を築こう」との目標が連帯意識の基盤

津波で大変な被害を受けたにもかかわらず、立ち上がりが早いと思いますが。


組合員が共同で使用するサッパ舟

伊藤 重茂半島は地形の関係で大きな漁港を作ることができず、漁船漁業は発達しませんでした。漁船は19.9トンの船が1隻あるだけで、わかめとこんぶを採る1トン以上2トン未満とあわびを採る0.5トンほどのサッパ舟が中心です。ですから、自分たちで修理もできますし、何とか中古船も調達できました。加えて、「子孫に誇れる漁村を築こう」と漁協を上げて、合成洗剤追放や核燃反対の運動に取り組んできたこと、800艘以上の舟をすべて流されて、皆同じ地点に立ったことが連帯意識の形成に役立ったかもしれません。

冬の間はどんな作業をするのでしょうか。

伊藤 津波で流された、わかめとこんぶの養殖施設を作り、今、養殖を始めています。国の予算決定の遅れや養殖場作りに必要なロープなどの資材不足があり、半月ほど遅れましたが、何とか養殖場を作ることができました。この1-2月はわかめとこんぶの手入れや管理を行います。養殖も場所によって条件が全く違うし、浮き球を付ける間隔など長年の経験と駆け引きで、収穫に大きな差がでます。ですから、舟は1日ごとや午前・午後での交替など共同で使い、管理は組合員個々が行い、3月からの採取も個々人の判断で行うことにしています。

 

全ての情報を明らかにして、消費者に安心してもらう

今後についてお聞かせ下さい。

伊藤 今は中古船の調達は止めて、新しい舟を作っていますが、何としても2012年11月のあわび漁解禁に間に合わせて、1漁家1隻を実現したいと考えています。それで漁協が手当できる範囲では津波前の状態に戻ります。漁協では手が届かない、大きな問題が漁港の再建です。漁港が壊れているので、舟を繋いでおくこともできなければ、陸揚げしておくこともできません。中心の重茂漁港は県管理でようやく工事が始まったところですが、3月の養殖わかめの採取には恐らく、間に合わないと思います。それでも重茂漁港はまだ良い方で、もうひとつの県管理の音部漁港、他に6つある市管理の漁港はさらにひどい状況で、全く手が付けられていません。加えて、半島全体の地盤沈下もひどく、測量では40-50センチ沈んだといっています。宮古市内と結ぶ県道は海辺を通るのですが、風が吹いただけで、波が道路に上がってくるような状態で、応急復旧しただけで、全く手が付けられていません。

  「1000年に一度の未曾有の大災害だ」と行政はいっていますが、実際の復興に向けた作業は平常時と同じで、遅々として進んでいません。この状態が続くようでは復旧・復興はかけ声だけで、中身は雲散霧消しているといわざるをえません。ですので、一刻も早く、復旧策を実施して欲しいと思います。

被災地に心を寄せる全国の皆さんに今、一番伝えたいことは何でしょうか。

伊藤 3年後には生産を震災前に戻し、4年目以降はさらに良質の海産物を生産することを目指しています。その位のペースで、生活の再建も含めて、めどを付けなければ、若い人たちは重茂から出て行ってしまいます。その上で、今一番心配しているのは福島原発事故の影響で、放射能汚染に対して、消費者が余りにも過敏な反応をするのではないかということです。5月の天然わかめ、11月のあわびとも採取前に検査を行い、大丈夫という結果が出たので、採りました。国や関係機関は国民に正直に情報を公開するべきです。消費者が不安に思うのはすべてがありのままに明らかになっていないからです。私たちは生協とも連携して、これからも厳しい検査を行い、すべてを明らかにしていきますので、重茂漁協の海産物を消費者の皆さんにぜひとも食べて欲しいと思います。

 

 

伊藤 隆一


 

JFおもえ重茂漁業協同組合 代表理事組合長

1938年生まれ。岩手県立宮古水産高等学校卒業。1959年重茂漁業協同組合就職。1999年同協同組合退職。翌2000年に重茂漁業協同組合理事に就任し、2003年から代表理事組合長。その他、岩手県沿岸漁船漁業組合理事、岩手県漁港漁村協会理事などを歴任。

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