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被災者・被災地の復興へ向けて―東日本大震災を乗り越えて

距離を越えた顔の見える関係が災害弱者を支える

宇都宮大学教育学部教授 長谷川 万由美さん

  3月11日に東日本をおそった未曾有の大震災。地震と津波の甚大な被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による二次被害が震災をさらに深刻なものにしているのが現状です。
  こうした状況の下、私たちに何ができるのでしょうか。
  本連載では、東日本大震災の復興に向けた様々な取り組みやビジョンをレポートすることで、よりよい復興に対する理解と議論を深めていきたいと考えています。

地域福祉が専門で、障がい者団体などの運営に関わりながら、被災地への支援活動を続けている宇都宮大学 教育学部 教授 長谷川 万由美さんに、被災地の状況や障がい者や高齢者などの災害弱者への支援のあり方などについて聞きました。

 

 

町がすべてなくなった状況で受けた大きなショック

被災地に何度か入られているとお聞きしました。その様子からお話し下さい。

長谷川 4月中旬に宇都宮大学として学生を現地に派遣できないかどうかを検討するために、宮城県の石巻市に行き、旧雄勝町や在校生の7割近くが亡くなった大川小学校などにも赴きました。特に雄勝などは町がすべてなくなってしまっていて、それが何ともいいようがないほど、ショックでした。私は地域福祉が専門で、まちづくりは小学校区や中学校区を中心に住民の顔が見えるところで取り組みましょうといってきました。しかし、まちがなくなってしまったのでは、どうしようもありません。「まちづくりとは、一体何なんだ」と叫びたい気持ちでした。学生現地派遣はGWに行い、また7月にも行うことになっています。

  その後、6月中旬に、福島県浜通りの相馬市と南相馬市、宮城県境の新地町、そして中通りの伊達市に行きました。報道では、浜通りは原発事故による放射線汚染からの避難が中心で、私も放射線のことを気にしていました。しかし、実際に行ってみると、津波の被害がとてもひどいのに驚きました。がれきは片付けられて、更地のようになっているので、現地を知らない人が行ったら、あたりに何もなくても不思議に思わないかもしれません。しかし、どこも住宅や田畑があったところなのです。相馬市に松川浦という砂州で太平洋と隔てられた景勝地があります。周りは砂や風を防ぐために松林になっていたそうですが、松の木が津波でほとんど根こそぎ流されてしまって、砂州の向こうの太平洋が見えるのです。私は初めていったので、不思議に思いませんでしたが、案内してくれた地元の人は「今まで向こう側の海が見えることなどなかった。お店もなくなっている」と絶句していました。

  相馬市内は津波の被災地はがれきが片付けられてほぼ更地になっているのですが、南相馬市に近づくと、手つかずのところもあり、津波で船が陸に打ち上げられたままで、ゴロゴロころがっていました。常磐線とほぼ平行する形で、国道6号線が南北に走っていますが、それを境に海側は津波の被害がひどく、内陸側は被害がそんなにありません。被害がひどい海側には、恐くて滅多に行けないという地元の人も少なくないようです。加えて、原発から半径20km以内の立ち入りが禁止された「警戒区域」と半径30kmの緊急時に屋内待避や避難が求められる「緊急時避難準備区域」、そして放射線量の数値が高く、6月末までに避難が求められる「計画的避難区域」が複雑に絡む中で、住民の人たちは生活して行かなくてはならないという大変な状況です。

 

地域によって大きな違いがあるボランティアの受け入れ

ボランティアの受け入れ状況はどうなのでしょうか。

長谷川 災害時のボランティアの受け入れやニーズの把握は各自治体の社会福祉協議会が立ち上げる災害ボランティアセンターが行いますが、石巻市と福島浜通りでは大きな違いがあります。石巻市では、市役所と石巻専修大と災害時の救援協定を結ぼうとしていた時に震災が起きたこともあり、石巻専修大がキャンパスをボランティアのために提供し、早い時期から県外も含め、大勢のボランティアを受け入れました。そのため、4月段階でも近所の人が「隣のおばあちゃんはひとりで片付けるのは難しいから、ボランティアを派遣して」と電話をかけてくるような状況でした。また市内にボランティアもたくさん入っているので、ひとりで家の泥出しをしている住民がいると声をかけて、ボランティアが助けに入ったりしていました。

  一方、浜通りは自分たちで何とかしたいという気持ちを強く持っていて、ボランティアの受け入れも慣れていない面があります。ですから、5-6月でも、住民から頼まれなくてもできる側溝の泥さらいをまずやって、ボランティアの役割を理解してもらってから、個人の家の後片付けや泥出しなどに入っているという地域もあります。加えて、自治体による違いもあります。例えば、相馬市は市域全体でひとつの災害ボランティアセンターですが、2006年に原町市と鹿島町、小高町が合併して誕生した南相馬市では旧市町ごとに地域自治区になっていて、災害ボランティアセンターも鹿島区と原町区のそれぞれに置かれています。そして、福島第1原発から20km圏内の小高区は全住民が避難しているため、センターは置かれていません。

  その上で、緊急時避難準備区域とそれ以外で放射線汚染の激しい「ホットスポット」があり、住民の活動も制限されますから、全体のニーズや市民の状況を把握するのは非常な困難が伴います。そうした中で南相馬市では、さらなる緊急時への対応を視野に入れて、地元の障がい者団体と連携して、全戸調査に近い形で、障がいを持つ人やその家族の訪問聞き取り調査を行い、震災以前につかむことができなかったニーズも含めて、ニーズ掘り起しにつながっているそうです。

 

避難生活長期化の中で、全体を見るコーディネーターが不足

被災した高齢者や障がい者などへの支援はどうなのでしょうか。

長谷川 6月23日段階で、なお12万名余の人が様々な場所に避難しています。それに対して、様々な団体やグループが支援に入っていますが連携がとれていないところもあります。例えば、栃木では県内で被災した人と福島から避難してきている人がいます。避難所が設けられた初期の段階では、その場所に近いNPOや団体が避難者をともかく助けようということで、支援に入りました。その後、避難所での生活が長期化するに伴って、避難している人たちのニーズが変化します。本来であれば、それに対応する形で障がい者や子どもに強いなど専門性を持つ団体が支援に入るなど、初期対応とは異なったレベルの調整が必要になります。変化するニーズに対応してスムーズに支援も変えていくことが必要ですが、避難所の全体がわかり、避難者のニーズを把握してそれにこたえるコーディネーターが足りないので、先に入った団体がそのままの形で支援し続けるという状態にもなっています。

  国は阪神淡路大震災の時に高齢者などへのケアが不十分で災害関連死が相次いだことを教訓にガイドラインを策定して、災害時に介護の必要な高齢者や障がい者、妊婦などを受け入れる福祉避難所を作るように自治体に促してきました。その結果、今回の震災では、岩手、宮城県内を中心に、仙台市や石巻市など少なくとも6自治体で40ヶ所の福祉避難所が開設されたと報道されています。しかし、そうした形で、フォローする態勢が出来たところは被災地全体から見れば、非常に限られていますし、福祉避難所でもそれぞれの障がいにあった支援というような細やかな対応は困難です。

 

問われている「地域で生き、支え合うこと」の深化

どのような形での支援が必要なのでしょうか。

長谷川 放射線量が高くこれからの見通しが立ちにくい地域、復興に向けて動き出している地域などによって、事情は違います。しかし、最も厳しい状態に置かれている南相馬市などの場合、応援のソーシャルワーカーが1ヶ月程度で交代しながら、支援に入るのでは短すぎます。障がい者などのクライアントが何回も同じ話をしなくても済むように、1年ぐらいは現地に住んで、活動できるのが理想だと思います。そして、ソーシャルワーカーはクライアントへの対応だけでなく、住民と全国から支援に入るNGOやNPOが連携できるようにするコーディネーターの役割を果たせると地域での大きな力になるでしょう。

  障がい者の場合、2005年に施行された障害者自立支援法で、地域で障がい者の生活を支えるため、地域の事業者が提供するグループホームやショートステイなど様々なサービスが利用しやすくなりました。ところが、今回の震災で、その事業者が被災したりして機能しなくなってしまい、生活に必要なサービスが受けられなくなったり、グループホームで生活していた人を自宅で引き取らざるをえなくなってしまったケースがあります。そうすると、家族に一気に負担がかかったり、何年も自宅にいなかったため、周囲の人との関係がなくなってしまっていたりして、地域で支えきれないこともおこっています。

  私たちは、地域にグループホームやショートステイなどの様々な事業者やNPOがあり、障がい者が入所施設や家の中に閉じ込められた形ではなく、地域で暮らすことができるようにすることがまちづくりだと考え、そのための取り組みを進めてきました。今回のように事業者が機能を停止した時でも、地域で障がい者を支えることができなければいけなかったのに、今回の震災ではそれが十分にできませんでした。

  大規模な入所施設はともかく、グループホームなど小さな施設の多くが地域に迷惑をかけないようにという思いを抱えていて、地域に積極的に出ていっていないところもあります。それが震災が起きた時に、地域で支えられず、施設そのものを維持できなくなる原因のひとつでした。そう考えると、今まで「地域で生きる、地域で支える」といってきたことがいかに浅く、軽かったことか、という悔恨の念にとらわれます。

 

顔の見える関係を作り、何かあった時に駆け付ける

これからのまちづくり、コミュニティをどう考えるべきなのでしょうか。

長谷川 本来、災害弱者とは、災害がなければ地域のサポートがなくとも生活できる人が、災害のために、普通に生活できなくなった人たちのことではないかと思います。一般に、災害弱者とは障がい者や子ども、高齢者などを指すと思いますが、そうした人たちは災害が起こる前から、弱者です。そもそも、弱い立場の人たちが、災害によってさらに弱い立場に置かれてしまうという視点をもって、普段のまちづくりとコミュニティのあり方を考えていく必要があります。

  その時に、大切なのは友好都市や姉妹都市のように、直接顔の見える形でつながっている関係を作っておくことだと思います。例えば、江戸時代後期、農村復興の指導者だった「二宮尊徳」共通のゆかりの地である福島県相馬市と日光市では、「二宮尊徳サミット」等で震災以前から交流があり、また、当時日光の農政復興のため、相馬中村藩が、日光へ農村復興金5000両、馬の供給、人的支援を行った歴史があります。そのような助け合いの歴史があったため、今回震災が起きた時も、日光市はいち早く相馬市を支援する動きをスタートさせることができました。

  それは自治体同士の関係ですが、災害が起きた時に、国の動きなどを待たずに、救援に駆け付けることができるピンポイントでつながっている関係をあちこちで構築していくことが非常に大切だと思います。そのためには、コミュニティを地理的な地域に限定せずに、考えなければなりません。日光市と相馬市のように、遠くでもつながっている関係を特別支援学校同士、あるいは障がい者団体同士など様々なレベルで普段から作っておき、何かあった時に助け合うのです。

  かつては家族や親戚の中だけだった助け合いの関係を地域に広げようということで、地域にグループホームなど様々な事業者が生まれました。その上で、今度は物理的な距離を越えて、関係を作り出していくことで、今回の震災で明らかになった、地域で支え合うことの課題を解決していくことが求められていると思います。

 

 

長谷川 万由美(はせがわ まゆみ)


 

宇都宮大学 教育学部 教授

専門は、地域福祉、社会福祉。単著・論文に「1990年代イギリスにおける契約文化とボランタリー組織への影響」(『日本の地域福祉』日本地域福祉学会、2002年)、「介護保険導入と福祉NPO : 福祉NPOの多様性と当事者性」(『宇都宮大学教育学部研究紀要』2006年)、「我が国の福祉分野における子どもを巡る法制度や施策の展開」(『子育てバリアフリー施策とまちづくり』、財団法人日本交通研究会、2009年)など。共著に和田敏明編『地域福祉の担い手』(ぎょうせい、2002年)、武智秀之編『福祉国家のガヴァナンス』(ミネルヴァ書房、2003年)、宮城孝編『地域福祉と民間非営利セクター』(ぎょうせい、2007年)など。

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