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被災者・被災地の復興へ向けて―東日本大震災を乗り越えて

細くてもよい、長く被災地のことを見続けて欲しい

陸前高田市米崎小学校仮設住宅自治会長 佐藤一男さん

  3月11日に東日本をおそった未曾有の大震災。地震と津波の甚大な被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による二次被害が震災をさらに深刻なものにしているのが現状です。
  こうした状況の下、私たちに何ができるのでしょうか。
  本連載では、東日本大震災の復興に向けた様々な取り組みやビジョンをレポートすることで、よりよい復興に対する理解と議論を深めていきたいと考えています。

岩手県陸前高田市で、かき養殖を営み、市立米崎小学校避難所運営の中心的役割を果たし、現在米崎小学校仮設住宅自治会長を務める佐藤一男氏に、3月11日の大震災と津波襲来時の状況、避難所での生活、仮設住宅での課題などについて聞きました。

 


陸前高田の海を臨む(2011年10月5日現在)
津波で海岸近くの施設は殆どが押し流されたが、奇跡的に稲穂が実っていた。
震災後の海に新しい養殖筏が浮かび始めた。

 

祖父の「人の倍、逃げろ」の教えが家族を救った

地震の発生と津波が押し寄せた時の様子を教えて下さい。


3.11の様子を語る佐藤さん

佐藤 私はカキの養殖をしていますが、3月は出荷シーズンが終わり、次のシーズンに向けた仕込みの時期です。ちょうど、港から船を出して、カキを海に運んでいる途中で地震に遭いました。船で走っていても、カタカタと細かい振動が伝わり、陸を見ると、あちこちで土砂崩れが起こって、土煙が上がっているのが見えました。携帯電話の緊急地震速報が鳴り、今までに経験したことのない長さで震動が伝わり続ける中、「大変なことが起きた。戻ろう」と、港に戻りました。そして、待っていた従業員たちに、「町中を通るな。山を回って帰ってくれ」と指示した後、歩いて数分のところにある自宅に戻り、妻に「持てるものを持って、娘を小学校に迎えに行き、高台にあるおじさんの家に集合」と伝えました。40分ぐらい経って、おじさんの家に着く頃、津波が押し寄せ始めました。私たち家族は普段から地震が来たら、「家に帰らず、集合はおじさんの家」と決めていました。それで助かったのです。

たくさんの人が津波に流されました。防ぐことはできなかったのでしょうか。

佐藤 浜の人間(漁師)は普段から、「あんな防潮堤では津波が来た時に役に立たない」と話していました。それで、皆逃げて助かっています。M7.5クラスの宮城県沖地震は30-40年周期で起きると言われていて、この前が1978年ですから、すでに30年以上が経過していました。予測周期を超えることは、地震のエネルギーが余分にたまることを意味しますから、宮城県沖地震を想定して作られた防潮堤は役に立ちません。私たち一部の人間はわかっていたのですから、もっと大きな声で津波の危険性を市民に伝えておけばよかったという思いがいっぱいで、本当に悔いが残ります。

  私が中学生の時に亡くなった祖父は明治生まれで、1896年(明治29年)の明治三陸地震のことは祖父の親から聞き、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震と1960年(昭和35年)のチリ地震津波は体験しているので、津波が来た場所まで暗記していました。そのため、私は子どもの頃から、「小さい地震でも、地震が100回あったら、100回逃げろ」「どうせ逃げるなら、人の倍に逃げろ」「臆病者と笑われてもいい。100回目に本物の地震が来た時、生き残った奴が笑うんだ」と言われ続けてきました。今回、自宅やカキ養殖の作業場、船などすべて流されてしまいましたが、家族全員命だけは助かったので、その言葉が本当に身に沁みています。

 

即断即決をし続けたことで、皆の信頼が集まる

避難所生活について、お聞かせ下さい。


津波によって破壊された漁港

佐藤 一時避難所に指定されていた地域の集会所が食料や毛布などの備蓄品と一緒に流されてしまったので、その北側で標高30mほどの高台にある米崎中学校の体育館に避難しました。けれども、3月11日夜の度重なる余震で、校舎と体育館の壁に亀裂が入ったため、12日の昼、800mほど北の米崎小学校の体育館に移りました。

  250人ほどで避難所生活をスタートしたのですが、備蓄食料をすべて流されてしまったので、食べるものがありません。そうすると、「米をもらってくる」「野菜をもらってくる」と自発的に動く人が出てきました。そんな形で、3-4日過ごす内に、もらってきたものをどうすればよいかを聞く人が見えてきて、皆がその人たちを頼りにしていることが分かってきました。そこで、頼りにされている人たちを一本釣りで集めて、私の一存で即断即決の役員会を開きました。そして、担当を決め、それを表にして壁に貼りだし、「この体制でやりますから、協力して下さい」と宣言して、運営を始めました。役員は、どっしり座っている会長と副会長、食事を作る賄い班、病気予防のための看護師さんにお願いした衛生班、支援物資の受け入れを担当する物資班、大工さんになってもらった備品班、消防団部長の防災担当、そして市役所等との連絡にあたる渉外担当で、合計10人でした。

佐藤さんが決めて、運営がスムーズにできたのはなぜなのでしょうか。

佐藤 運営体制を作ろうと言い出したのは消防団の部長で、彼に「避難所には様々な地域の人が来る。その時に『自分がここの区長だ』といっても、他の地域の人には通じない。役立つのは消防のはんてんだ」と言われたのです。消防団のはんてんを着ているのを見れば、誰でも、地元で活動している人間で、ボランティアとしても動いていることが分かります。「お前は副部長で、はんてんに“長”という字が付いている。“長”があると、話をまとめやすい。自分たちは行方不明者の捜索などに行くが、お前を残すから、全部やれ」。部長のこの一言で、私は腹をくくりました。私が誰かに頼んでいたのでは、避難所運営ができません。そこで、「会長を頼む立場に自分がならなくてはいけない」と考え、役割まですべて、決めたのです。

  私の決定が受け入れられたのは、即断即決を皆の前でやったからだと思います。色々な問題や物資の配分など、全てについて、その場で答えを出しました。明日になれば、最善の策が出るかもしれないのですが、問題は今起きているわけですから、その場で答えを出さなければなりません。そこで、全く余裕はありませんでしたが、「どんな問題でも、とりあえず私のところに持ってこい」と言い続けました。私は5月連休明けに仮設住宅に移りましたが、2ヶ月間、それができたのは、皆が信頼してくれたからです。150人近くいれば、私が次善の策しか出せなくても、最善の策を思いつく人が必ずいます。しかし、皆の前で自分の意見をいうと、混乱してしまうので、後でそっと私に教えてくれて、判断は私に委ねてくれました。そうして過ごす内に、みんなの意識も大きく変わっていきました。「自分も何かしなければ」と思うようになり、口は出さないけれども、手は出すという形で、動くようになりました。

どんな点を意識して、運営にあたったのでしょうか。

佐藤 一番問題になったのは物資の配給の仕方です。全部で145人、9人家族から単身者まで45世帯がいるわけです。世帯単位にするか、人数で分けるか、様々に考えました。例えば、カップラーメンにしても、1人1個ずつ配れない場合もあるし、値段が違う場合もあります。その時、こちらの人には高いラーメン、ほかの人たちには安いラーメンというわけにはいきません。数が足りない場合、値段の張らないものは同等品で我慢してもらうことにして、最後はじゃんけんで勝った人に配りました。そこで、絶対的に心がけたのは、役員が先に取らないことです。手渡しで渡すのではなく、体育館の縁のコンクリートの上を世帯ごとに分けました。そして、そこに紙を貼り、誰の場所か分かるようにして、そこに物資を置いていきました。公明正大なやり方で、役員が得をしているわけではないことも分かるので、みんなも納得してくれました。

  また、避難所生活が始まった直後に、携帯電話の充電器を役員のところに集めて、順番に充電するようにしました。コンセントが限られているので、それぞれが勝手に充電器を使うと、充電できない人が出てきたりします。そこで、役員のところに集めて、充電したい場合は順番に使うことで、不公平が生じないようにしました。

 

両隣と顔見知りになることで、孤独死を防ぐ

米崎小学校の避難所は6月30日に閉鎖され、全員仮設住宅に移りましたが、そこではどんな問題があるのでしょうか。


米崎小学校の仮設住宅

佐藤 仮設住宅では棟ごとに班長を決め、その上で自治会長に私がなりました。ところが、避難所の時は役員がいたのに、自治会では会長ひとりしかおらず、私はひとりぼっちで、相談できる人が誰もいませんでした。また、仮設住宅には入居者が集まれるような集会所もありません。市の見解は「学校の部屋か、仮設を一戸使って下さい」ということですが、狭い部屋で他人のお金を扱うことはできませんし、書類の山に埋もれてしまいます。そこで、学校に隣接した場所に土地を見つけ、8月10日から、国際援助団体(NGO)「セーブ・ザ・チルドレン」が建てた建物を集会所として、使えるようになりました。それで、ようやく私はひとりぼっちでなくなり、自治会としての活動も本格的に始まりました。

  米崎小学校仮設住宅のように、初期に建てられた仮設住宅は独居の高齢者や持病を抱えた人などが優先的に入居しています。若い年代の人たちが多ければ、炊き出しや物資配布のお知らせなども回覧板で済むのですが、高齢者が多いと、日時を忘れてしまうなど、十分に伝えきれません。そこで、集会所でチラシを作り、60戸すべてに戸別配布しています。 その上で、今一番意識しているのは孤独死対策です。入居者は親戚や知り合いがいる人がほとんどで、孤立状態の人は比較的少ないのですが、両隣すべてが知り合いでもありません。60軒すべてが親戚になることが理想ですが、そこまで行かなくても、両隣と顔見知りになって、「いつもと様子が違う」となれば、私のところに連絡が来る位になれば、少しは安心することができます。

  そのための活動をする人も出てきたので、今までは作ってもらうだけだった炊き出しを止めました。そして、炊き出しに行きたいという連絡が入ったら、こちらから「一緒に作りましょう」と投げかけ、住民が参加できる形の活動にして、仮設居住者同士が親しくなるきっかけにしようと考えています。

 

復興はスタート台にもついていない。細く長く、見続けて欲しい

復興に向けた動きは始まっているのでしょうか。


震災後に作られたカキ筏

佐藤 スーパーやコンビニ、歯医者、食堂などポツポツと出来ていますが、すべて仮設施設です。陸前高田は小さな街ですが、震災前は市内で必要なものをすべて揃えることができました。ところが、今は隣の大船渡や気仙沼に行かなければ、揃いません。震災前のような状態になるのははるか先のことで、仮設店舗で営業している店も1年後に営業を続けているかどうかも分かりません。ですから、今の状況を復興に向けた動きといっていいか、正直疑問です。地域経済という観点から見ると、外からお金を持ってくる仕組みと中でお金を回す仕組みの両方が必要です。現状では、どちらも震災前と比べて、パーセントで表すことができるレベルにも、至っていないと感じています。

  漁業はやる気のある人間が多くて、震災前に10年以上やろうと考えていた人は全員残ったので、未来はあります。カキ筏も海に浮かんでいるし、ほたても養殖の準備を始めています。しかし、港が地盤沈下し、防波堤が壊れて、安心して作業ができませんし、作業場もありません。震災特例と言われますが、人の口に生で入るものを加工するのに、特例という形で、品質管理をおろそかにするわけにはいきません。カキは海水を使って洗うので、いくら津波が恐ろしくても、施設は地盤沈下した港以外に作ることは不可能です。一方で、防波堤を作らなければ、船を港に泊めることはできません。そう考えると、漁業の復活は、1年や2年ではとても無理だと思います。

このサイトを見る人たちにメッセージなどがありましたら、お話し下さい。


長男の悠也君と

佐藤 東日本大震災に関するニュースがどんどん少なくなっていて、取り上げられるとすれば、新しい店ができたなどの復興に向けた動きです。しかし、実際には、田んぼの中に、まだ車がひっくり返っていたり、船が上がったままでいるのが被災地の現実です。順調にいけば、来年12月には三陸のカキやホタテが東京に届くと思いますが、それで被災地は復興したわけではありません。5年、10年という単位で、被災地を細く長く、見続けて欲しいと思います。

  また、東海・東南海地震の襲来が言われていますが、地震の巣といわれる日本列島ですから、必ず地震はやってきます。その時、「怖い」と思ったら、ともかく逃げて下さい。今回も体育館に避難した後、「あ、あそこの母さんいない」「そういえば、『すぐ戻ってくる』と毛布取りに家に戻ったんだわ。『行くな』といったんだけど、行ってしまった」というやり取りがありました。結局、その人は戻って来ず、津波の犠牲になってしまったのですが、全員が逃げおおせ、誰も死ななければ、大震災ではなく、大地震で終わるのです。「人の倍でも、逃げろ」。津波の可能性がある地域の人は、これを肝に銘じて欲しいと思います。

 

 

佐藤一男(さとう かずお)


 

陸前高田市米崎小学校仮設住宅自治会長

1965年陸前高田市米崎町脇ノ沢に生まれる。1984年岩手県立高田高校卒業、同年、山形大学入学。ミクロンメタル株式会社勤務を経て、1992年に家業のカキ養殖を継ぐために陸前高田市にUターン。2011年3月11日に東日本大震災で被災。現在は、米崎小学校仮設住宅入居し、自治会長として活躍する。

(写真:消防団副団長のはんてんを着た佐藤一男氏)

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