• 東日本大震災 被災者・被災地の復興へ向けて
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阪神・淡路大震災から何を学ぶか

1995年に起こった阪神・淡路大震災。
6,434名に及ぶ死者をはじめ、被災した多くの人たちは深い悲しみと大きな打撃を受けました。また、震災の爪痕は深く、15年経った今なお、その被害に苦しんでいる人々も多くいます。一方で、この数年を見ただけでも、全国各地で地震や集中豪雨、台風による災害が発生し、多くの犠牲者が出るなど、阪神・淡路大震災の教訓を生かすことは極めて重要になっています。
「阪神・淡路大震災から何を学ぶか」というテーマで、12回にわたって、その教訓を明らかにしていきたいと思います。

第2部 被災者を支え続けた人たち

 

コミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸)

第7回 地域で他者のために働きたい人の夢や思いの実現を支援

特定非営利活動法人 コミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸) 理事長 中村 順子(なかむら じゅんこ)さん

連載7回目は阪神・淡路大震災後のボランティア活動の経験から、地域活動団体の設立・支援のための中間組織を立ち上げ、地域の自立を促すための活動を行っている「コミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸)」理事長 中村 順子氏に聞いた。

 

困っている人を助けるのは当たり前と活動を開始

中村さんは震災発生の2週間後に、「東灘地域助け合いネットワーク」というボランティア団体を立ち上げました。その経緯をお聞かせ下さい。

中村 1982年、神戸で関西地方では最初の住民参加型在宅ボランティアグループ「神戸ライフ・ケアー協会」の設立に参加し、以来、高齢者や障がい者が在宅で暮らすための支援活動を行っていました。そうした中で、震災が起きたので、地震が発生した1月17日午後から、支援していた高齢者や障がい者の安否を一軒一軒訪ねて歩きました。ところが、多数のクライアントを抱えていた神戸ライフ・ケアー協会は震災発生直後の状況に対応できず、会として動くことができませんでした。私はそのことがとても情なく、13年間の活動を考えれば、困っている人を助けるのは当たり前ではないのかと思いました。そこで、私自身被災者の1人でしたが、会が動かないのであれば、自分で動こうと考え、高齢者や障がい者のお宅を訪ね歩いていると、水道管が壊れていて、洗濯などに使う生活用水が足りないことが分かってきました。それで、「水くみ110番」と銘打って、2月2日にテントひとつで「東灘助け合いネットワーク」をスタートさせたのです。

どんな活動をされたのでしょうか。

中村 全国からボランティアや義援金の支援を受けて、水運び、洗濯代行、仮設風呂の提供、がれきの撤去などを行いました。東灘区では、ガスや水道は山の手の被害が少ない地域から復旧していき、被害がひどかった海岸に近い下町では2ヶ月も3ヶ月も使えませんでした。それで、洗濯が出きないお宅の洗濯物をまとめて、水道が復旧した山の手の家に持って行き、洗濯をしたり、公園に仮設風呂を作り、お風呂に入れるようにしたのです。

  3、4月頃になると、仮設住宅が建ってきたので、その活動を終了させ、コミュニティ支援活動に入っていきました。仮設住宅では地域単位での入居方法をとっておらず、入居者はお互いの名前や顔が分かりません。そこで、周辺のお店などの情報を「かわら版」で提供することと併行して、「部屋に閉じこもっていないで、出てきて顔を合わせて話し合おう。話すだけでも元気が出る」茶話やかテントなどコミュニティづくりに取り組みました。一方で、仮設住宅ばかりに物資が集まり、仮設住宅以外の在宅被災者が置き去りにされている状況がありました。そこで、「仮設以外の人も被災者だ」と、地域の医院の待合室を開放してもらい、そこにふれあいサロンを作って、周辺に住んでいる人が集まって、みんなで情報交流ができるようにしました。

 

地域のために役立つことをサポートする

96年10月に、「コミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸)」を発足させました。始めた動機はどのようなものだったのでしょうか。


図1. 被災者に対する支援の考え方

中村 95年8月に避難所がなくなり、秋から冬にかけて、すべてが仮設住宅への移行が完了し、被災者の暮らしも落ち着いてきました。そうすると、仮設住宅に物資やボランティアが更に集中し、その延長線上で、住民から「もっと、ものをくれ。もっと手伝ってくれ」という要求が出てきました。その一方で、少数でしたが、「落ち着いたから、今度は自分たちが地域のために何かをしたい」という人も出てきました。

  私も含めて、ボランティアグループは震災から半年以上の間、失ったものを供給するスタイルで活動してきました。緊急性が薄れ、生活が落ち着いてこようとしていた時に、必要以上に人手を要求するのは、被災者の自立に結びつかず、これではいけないと思いました。そこで、「供給を止めボランティアに助けてもらったように、地域のためにできることをしよう、私は、あなたが地域のために役立つことをするサポートをする」と呼びかけました(図1)。「自立しよう」と外部から来た支援者がいえば、反発を受けるだけですが、私は被災地に住んでいるわけですから、その役割を引き受けることにして、そのための組織として、「コミュニティ・サポートセンター神戸(CS神戸)」を立上げたのです。

 

15年間で、250余りの地域活動団体を支援

CS神戸はどのようにして、活動を始めたのでしょうか。

中村 地域で何かやりたいという人たちの志や思い、夢の実現を手伝うのがCS神戸です。誰かが、何かやりたいと思いついても、場所やお金がなく、仲間もいませんし、行政とのネットワークもありません。その「ないないづくし」を変え、「1人では弱いから、グループにし地域の活動ができるよう総合的なサポートをする」ということです。このような中間支援団体はそれまで、民間には存しませんでした。

  実際の活動は、主体的な力をつけるため自己決定能力をどう高めるか、そのために残っている力をどう生かすか(残存能力の開発)、地域性や個性を大切にしながら元に戻していく、という自立支援の三原則を地域に当てはめて、進めました。同じ被災地内の人が同じ関西弁で訴えたので、多くのところで、すぐに打ち解け、理解してもらえました。それでも「エネルギーがなくなっている人に自立、自立と偉そうなことをいうな。非情なことをいうな」と随分、怒られました。一方で、仮設住宅に住み込むボランティアさえ出てきていた中で、現地に居続けることの功罪について、きちんと議論できるようになりました。この経験から、被災者支援は被災者自身の力をどれだけ信じることができるのか、残された力をどこまで伸ばすのかという点を基本に据えて、行われるべきだと考えています。


図2. CS神戸の事業の変遷


図3. CS神戸の事業構成(2009年度決算実績)

地域活動団体への
支援の流れをお聞かせ下さい。

中村 CS神戸の活動は直轄事業と支援事業に分かれ、15年間で約250の団体を支援してきました(図2)。設立当初の96年頃は、直轄事業で地震で壊れない住宅の研究などを行い、それとリンクさせながら、支援事業で何かやりたいという個人を支援して、それをグループにしました。ほとんどが仮設住宅に住んでいた被災者で、グループづくりの事例が新聞に出ると、やりたいという人が次々に現れました。誰もが「自分が他人のために働くことで、自分自身も元気になる」といいました。これが現在に続くコミュニティビジネスの原点で、地域の様々な問題を解決しているのです。

  97-98年頃になると、臨床心理士や美容師など技能を持っているグループが新しい顧客開発や地域貢献の方法が分からないと、支援を求めてくるようになりました。そして、99-2000年頃には、行政が課題を持つようになります。行政は「創造的復興」という目標を掲げたのはよいのですが、何をやったらよいのか分かりませんし、知恵もありません。そこで、コミュニティ作りなどをやってきたNPOの経験を生かして企画を出し、事業化して、課題を解決していきました。例えば、徒歩圏内のコミュニティ作りとして、神戸市はふれあいサロンから「生きがい対応型デイサービス事業」、兵庫県は「生きがい仕事サポートセンター」をスタートさせました。その後、企業との連携が始まり、太陽光発電による小規模発電所の建設やバス会社との連携による地域バスの運行などが実現しました(図3)。

 

現在は緩慢に被災したような状況の地域社会全体の底上げが必要

現在、かかえている課題にはどのようなものがあるのでしょうか。

中村 リーマンショック後、顕著になってきているのですが、地域全体が緩慢に被災したような状況になっています。表には見えませんが、家の中で様々な問題を抱え、孤立死や引きこもり、子どもや女性への虐待などが起きて、貧困も大きく広がってきています。地域全体が対象になってきているので、今までのNPOの経験だけではどうにもならなくなっています。そもそもNPOはテーマで結びついているので、たくさん存在したとしても、地域の人々の生活すべてをカバーできるわけではありませんし、その活動のメッシュは粗いのです。それに対して、地域の中で、細かく活動できるのは自治会や婦人会、こども会など地縁で結ばれた地域団体です。この両者が一緒にならないと、現在地域が抱えている問題は解決できません。

  地域団体は「あのおじいさん、この頃、出てこないな。どうしたんだろう」などということが分かります。つまり発見力があるのです。ところが、問題なのは発見した後、すぐに解決にまで持って行こうとすることです。行政もそれを頼りにして、縦割りで補助金を付けますが、実際には当事者には嫌がられ、余計にこじれることが多いのです。当事者から少し離れたところにいるNPOが、子育て中の女性には「子育てサロンをやっているので、来ませんか」、おじいさんには「生きがいデイサービスをやっていますよ」、若者には「こんな職業訓練があるけれど、やってみない」などと働きかける方がよいのです。このように、解決するためのプログラムを持っているNPOと発見力を持っている地域団体がお互いの役割の違いを認識しつつ、協働して解決していくことが今、求められていると思います。

  しかし、行政は両者がひとつになると、大きな力になることもあり、今まで両者を分断してきました。また、地域団体も地域モンロー主義で、NPOを敬遠する傾向があり、一朝一夕では協働にまで進みません。神戸では各地域団体の連合会が存在して、大きな力を持っており、行政も補助金を細切れに出しています。その総額はひとつの小学校区で、年1,000万円ほどにもなりますが、それを地域包括資金のような形でまとめて使えるようにして、地域の創生を図ることも一つの方策です。

 

住民全ての身近にNPOがある地域を作り出す

最後に、CS神戸のこれからの目標をお聞かせ下さい。


図4. CS神戸が目指すコミュニティビジョン

中村 地縁的な団体だけの地域にNPOなどの自主的な組織が生まれ地域の多元性の構築が課題になっています。しかし、NPOには何の基盤もありませんのでそれをどう強化していくのかがCS神戸の一貫したテーマです(図4)。当面の目標は身近にNPOがある地域を作ることです。以前、調査研究にいったイギリスのある自治体は、25万人の人口の中で、市民の自主的団体が1,000ほどありました。東灘区22万人の町ですが、NPOが80、ボランタリー的なグループが200ほど、全部で300-400の団体があって、大分近づいてきていますが、これを増やしていきたいと考えています。

  もうひとつはNPOの活動の幅の広さを作り出していくことです。活動に加わる動機は、生きがいのために関わりたいという人から、交通費程度は欲しいという人、年金が少なくなる中で、生活のために収入を得たい人まで、様々です。それに対応して、有償活動や雇用につながる仕事を作りだして幅を広げ、広いニーズに応えていきたいと考えています。

 

 

上田 耕藏(うえだ こうぞう)


 

1995年2月より「東灘地域助け合いネットワーク」代表幹事に就任し、阪神淡路大震災の救援組織を立ち上げ復興活動に取組む。1996年10月より「コミュニティサポートセンター神戸」代表に就任し、NPOの起業や支援の中間支援組織を立ち上げる。1999年4月には特定非営利活動法人の認証を得て理事長に就任、現在に至る。その他、財団法人さわやか福祉財団理事、兵庫県立大学院緑地環境マネジメント研究科兼任教員などを歴任。

特定非営利活動法人 コミュニティ・サポートセンター神戸

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