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阪神・淡路大震災から何を学ぶか

1995年に起こった阪神・淡路大震災。
6,434名に及ぶ死者をはじめ、被災した多くの人たちは深い悲しみと大きな打撃を受けました。また、震災の爪痕は深く、15年経った今なお、その被害に苦しんでいる人々も多くいます。一方で、この数年を見ただけでも、全国各地で地震や集中豪雨、台風による災害が発生し、多くの犠牲者が出るなど、阪神・淡路大震災の教訓を生かすことは極めて重要になっています。
「阪神・淡路大震災から何を学ぶか」というテーマで、12回にわたって、その教訓を明らかにしていきたいと思います。

第1部 阪神・淡路大震災の記憶と課題

 

震災復興の状況と課題

第5回 震災を意識しつつ、震災前の風景や思い出が感じられる街をめざす

阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 研究主幹 紅谷 昇平(べにや しょうへい)さん

連載5回目は「震災復興の状況と課題」をテーマに、ひょうご震災記念21世紀研究機構阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 研究主幹 紅谷 昇平氏に話を聞きました。

 

ハードはほぼ再建。意識され始めた復興できないものの存在

2004年には神戸市の人口は震災前を上回り、震災から復興したと
いわれています。そもそも「復興」とは何なのでしょうか。

紅谷 難しい問題で、専門家の間でも意見が分かれていて、たとえば日本災害復興学会では、「復興とは何かを考える委員会」が立ち上がっている位です。私自身は、10人いれば、10通りの復興イメージがあってよく、それをひとつの姿を求めて、社会全体で共有しようとすると無理が生じると思います。

  一般的には、「復旧」は災害前の水準にまで回復すること、一方「復興」は災害前を超える水準まで到達することといわれることが多いですが、これはハード寄りの議論で、正確ではありません。なぜなら、人の命などのように、いくら努力しても災害前には戻せない問題もたくさんあります。亡くなった人は生き返らず、震災で障がいを受けた人や仕事を失った人も元通りにはなりません。そのように、取り戻せないものもたくさんあることを認めた上で、取り戻せるもの、新しく作るものについては、納得できるものにしていこうというのが復興だと考えています。

震災から16年になろうとしていますが、現在、どのような状況にあるのでしょうか。

紅谷 ハードで再建できるものについては、ほぼ再建は終わりつつあります。震災から10年ぐらいまでは、皆「震災に負けないために、がんばろう」と復興目標を掲げてやってきました。それが震災後15年になると、多くの人が「復興できないものもあるんだ」という事実に目を向けられるようになってきたと思います。そして、震災障がい者など、どんなに頑張っても取り戻すことができないものや、住宅ローンや雇用の問題などいまだに残る被害についても、改めて考えるようになってきているといえます。

  震災障がい者については、2010年に初めて神戸市と兵庫県が調査することになりました。特定の地域に、阪神・淡路大地震というひとつの原因で障害を負った人が集中していて、しかも震災時でなければ、それほどひどい障がいを残すケガではないはずなのに、震災という困難な状況のなかで手当が遅れ、障がいが残った人も大勢いるわけです。ですから、そうした人たちの実態を把握し、何らかの対策を講じる必要があると思います。

 

落ち込みから回復できない製造業と雇用の場

都市インフラや再開発事業、土地区画整理事業など都市基盤の整備は
どの程度進んだのでしょうか。

紅谷 鉄道や高速道路などの都市インフラは、震災直後から急ピッチで再建が進みました。また、土地区画整理や市街地再開発などの面的整備事業は長引いたものの、震災から15年が経過した2010年には、ほぼメドが付きました。

  一方、住宅の再建とそれに伴う人口の回復は、地域による差が大きく存在します。再開発で建設したビルでは、空き床が生じているところもありますし、土地区画整理も事業としては終了しても、住宅が建てられず、空き地が残っているところもあります。そうした中で問題は、震災前から住んでいた人が、住宅の再建を待ちきれずにそこを出て行き、新しく建てられた家には別の人が入居したというケースが多いことです。2007年に人と防災未来センターが行ったアンケート調査では、激震被災地では約3割の住宅が入れ替わったという結果が出ており、多くの地域で震災前のコミュニティがなくなってしまったことが浮き彫りになっています。

生産活動や商業活動など産業面では、どうでしょうか。

紅谷 そこが一番問題の多いところで、地域の産業や雇用は震災前のレベルにまでも回復していません。特に製造業が厳しくて、製造品出荷額で見ると、震災前は、全国、災害救助法が適用された10市10町の被災地、それ以外の兵庫県、という3者とも、ほぼ同じ傾向で推移していました(図1)。ところが、震災後は、被災地と被災地以外では15ポイントの差が生じました。当初は、その後の復興でなんとか元の水準まで戻せると思われたものの、しかし現実には逆の経緯をたどり、10年間でその差は30ポイントまでに拡大してしまいました。企業は、震災で壊れた工場を、元あった場所には再建せず、被害がほとんどなかった郊外の西区や北区に移転したからです。統計では、西区や北区、三田市の工場も神戸市に含まれていますので、数字の落ち込みはそんなに顕著ではありませんが、こと臨海部だけを見ると、出荷額の落ち込みはさらに大きくなっていると思われます。その結果、働く場がなくなったわけですから、製造業従事者数の推移を見ると分かるように、雇用は回復しておらず、従業員数は減少したままの状態が続いています(図2)。

  商業も、製造業と同様に、震災後には、被災地と被災地外とのギャップが生じています。小売業販売額の推移を見ると、2002年に最大6.8ポイントまで広がったギャップは、04年には4.9ポイントまで縮小しました(図3)。ところが従業員数で見てみると、02年の5.5ポイントの差が、04年には6.4ポイントと、縮まることなく続いています(図4)。特に、人口が戻っていない地域における商店街の売れ行き不振は深刻で、それに拍車をかけるかのように、工場跡地に大規模店舗が進出してきており、周辺の商店がさらに打撃を受けるというケースも見られます。


図1.製造品出荷額の推移(出典:工業統計)


図2.製造業従事者の推移(出典:工業統計)


図3.小売業販売額の推移(出典:商業統計)


図4.小売店従業者数の推移(出典:商業統計)

 

避難所-仮設住宅-復興住宅の単線型復興でコミュニティが崩壊

地域社会におけるコミュニティの再建、人々のつながりの回復という面では
どうでしょうか。


図5.各災害被災地の人口推移の比較

紅谷 まず人口で見ると、神戸市は、2004年には震災前の水準に回復しました。一般的に、災害前に人口が減少していた地域は災害後も減り続け、増加していた地域は増え続けています。神戸市の人口は、震災前まで右肩上がりで増えていました。そこで、震災に遭わずにそのまま増え続けていた場合と震災後の増加を比較すると、増加率は同じ傾斜にはなっていますが、実際には約10万人ほどの差があります(図5)。ですから、震災がなかったら、神戸市の人口はさらに約10万人増えていた可能性があるのです。

  その上で、最も反省すべき点としてあげられるのが、お金がなくて自力で住宅を再建できない人たちに対して、単線型の復興しか提供できなかったことです。すなわち、被災後、避難所から仮設住宅、仮設住宅から復興住宅という道筋しかなく、住まいが変わる度に、コミュニティが変わっていきました。避難所での生活は隣近所など地域の人たちと一緒でしたが、仮設住宅は遠く離れた郊外に建てられました。そこに、今まで街中に住んでいた人が入居するわけですから、距離的にも遠く、しかも仮設への入居は身体の弱い人が優先でしたので、入居先もバラバラで、震災前に住んでいたところの隣近所の関係はなくなってしまいました。

  そして、仮設住宅から復興住宅への入居の際も、その入居先の選定が抽選で行われたため、せっかく仮設住宅のときにできたコミュニティもバラバラになってしまいました。さらに、神戸阪神間の都市部に建てられた復興住宅はマンションタイプなので、隣近所との行き来もしにくく、もともと長屋に住んでいた人にとっては、コミュニティが作りにくいという状況が生まれてしまったのです。

  当時はともかく住まいを手当てすることが優先され、法律的にも抽選しか方法がないなど、やむを得なかった面もありますが、コミュニティの再建という面では反省すべき点が多かったのが実情です。実際、2005年に京都大学のグループが行った復興感調査では、近所づきあいの多い人ほど、復興したという感覚が強いという結果が出ています。その反省から、2004年の中越地震以降は、コミュニティ単位での避難所、仮設住宅への入居という形になっています。また、復興住宅もマンションタイプだけではなく、木造低層の復興住宅、民有地での復興公営住宅なども建設されるようになりました。

  ただ、中越地震や能登半島地震などは人口が少ない地域だったため実現できた面もあり、大都市を襲う大地震では、こうした対応が実現できるかどうか分からない面があります。

 

震災前の記憶や震災で受けた傷を話せる時に復興を実感

国の制度はどの程度整備されてきたのでしょうか。

紅谷 阪神淡路大震災が起きた時点では、住宅の倒壊に対する公的な支援制度はありませんでした。それに対して、被災者の住宅再建に対する公的支援を要求する運動が盛り上がり、1998年には被災者生活再建支援法が成立しました。当初、住宅再建に対する援助は見送られましたが、その後、対象と金額が拡大され、現在は年齢・年収制限なしで、最大合計300万円が支給されることになり、かなり充実したものになっています。

  一方、産業部門は長らく大きな進歩が見られませんでしたが、2007年の能登半島地震の際に、被災中小企業復興支援基金という地域産業を支援するための基金ができました。これは比較的使い道が自由なので、注目すべき制度だと思います。

被災者の人たちの意識という面では、どうなのでしょうか。

紅谷 日本では、第二次世界大戦を生き残った人たちの「死んだ人に申し訳ない。死んだ人の分までがんばらなければ」という思いが、戦後の復興と高度成長の原動力になりました。そうした考え方は日本だけではなく、世界的にありますし、阪神淡路大震災でも似たようなところがあります。神戸の小学校の先生が作り、神戸ルミナリエや学校などで歌い継がれてきた『幸せ運べるように』という歌があるのですが、それは「亡くなった人のぶんも毎日を大切に生きてゆこう」と思いを託す形で、よく歌われてきました。

  この15年間、多くの人はそのような「地震に負けるものか。亡くなった人の分まで、がんばろう」という心境だったのでしょう。そして、たとえ心の底に傷ついた思いを持っていたとしても、そのことをなかなか言い出せなかったのではないかという気がします。しかし、人々が本当に復興を実感できるのは、震災の時に傷ついた思いや震災前にあったことを心の奥底に隠しておくのではなく、話せるようになった時だと思います。

 

震災前からの連続性の中で、震災を考え、街を作る

もう少し、詳しくお話し下さい。

紅谷 震災後の復興で、神戸の街は震災前とは全く違う街になってしまったと感じるところもあり、果たしてそれでよかったのだろうかと思うのです。古い町並みの価値は、そこでずっと生活してきた人たちの記憶と歴史を思い出す手がかりです。しかし今の神戸は、たとえば震災で亡くなった自分のおじいちゃんやおばあちゃんを思い出そうとしても、それにつながる風景が減ってしまっています。

  懸命に街を再建している時は、「震災前の神戸にはこういうものがあったが、震災で壊されてしまった」といってしまうと地震に負けてしまうようで口には出せませんでした。そうしたことも手伝い、震災前の神戸を思い出せる町並みが少なくなってしまいました。しかし、15年経ち、復興してきれいな街になったからこそ、「震災前の神戸を再現しよう」とか、「亡くなった友だちの思い出を大切にしたいから、昔のままの形で公園を残しておこう」という取り組みができるようになっているし、そうした取り組みこそが今、必要なのではないかと思っています。

  極端ないいかたをすれば、昔あった通りの街に復旧して、そこから街作りを始める方がよいかもしれません。ドイツは日本と同じように、第二次世界大戦の際に空襲で古い町並みの多くは破壊されてしまいました。そして戦後、復興するにあたり、「コンクリートと鉄、ガラスを使った近代的な街を作ろう」という考え方と、「壊される前の街に戻そう」という2つの考え方に意見が分かれたそうです。それで、その2つの方法で復興を成し遂げてきたわけですが、戦後60年以上経ってみると、フライブルグのように昔の石造りの街に戻した方がよかったという声の方が多いということです。自分の意思に反して、突然家や街を破壊された震災による被害は、戦争による町の破壊や被害と似ている面があるように思います。

  そう考えた時に、神戸の街作りは震災から開始するのではなく、それ以前、さかのぼれば1868年の神戸開港の時からの長いスパンのもとに、街を作ってきた人たちに敬意を払う形で、連続性を保ちながら考える必要があります。そのような形で、震災の前からの連続性を見ていかないと、ノドに刺さったとげのように、震災による断絶を乗り越えられない街になってしまいます。ですから、震災を意識しつつ、震災以前の風景や思い出が感じられるような街にしていくことで、神戸の人々は震災を自然に振り返ることができるようになっていくのではないかと考えています。

 

 

紅谷 昇平(べにや しょうへい)


 

(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構
阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 研究主幹

専門は地域経営、都市計画、地域経済復興。平成6年3月京都大学工学部建築学科卒業、平成8年3月京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻修士課程修了、平成9年4月~平成19年3月三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株) 研究員、平成18年9月神戸大学大学院自然科学研究科地球環境科学専攻博士後期課程修了、博士(工学)、平成19年4月より現職

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