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阪神・淡路大震災から何を学ぶか

1995年に起こった阪神・淡路大震災。
6,434名に及ぶ死者をはじめ、被災した多くの人たちは深い悲しみと大きな打撃を受けました。また、震災の爪痕は深く、15年経った今なお、その被害に苦しんでいる人々も多くいます。一方で、この数年を見ただけでも、全国各地で地震や集中豪雨、台風による災害が発生し、多くの犠牲者が出るなど、阪神・淡路大震災の教訓を生かすことは極めて重要になっています。
「阪神・淡路大震災から何を学ぶか」というテーマで、12回にわたって、その教訓を明らかにしていきたいと思います。

第1部 阪神・淡路大震災の記憶と課題

 

長田区における震災被害とその課題

第4回

高齢者など声を上げることが困難な人に集中した被害

神戸市長田区は阪神・淡路大震災が現代の都市構造の矛盾を直撃した地域の象徴ということができます。連載4回目は長田区の被害の状況と現在の姿や課題について、長田区役所に開設されている「ひと・街・ながた震災資料室」への取材を中心に見ていきます。

 

神戸全体の火災による焼失棟の68%が長田区


神戸市 長田区役所 まちづくり推進課
総務課 庶務係長 久保田 正之氏

  神戸市長田区は阪神・淡路大震災で最も大きな被害を受けた地域のひとつである。その最大の特徴は火災による住宅の焼失が多かったことで、全焼棟数は4,759戸、神戸市全体の全焼棟数の68%に上る。また、家屋の倒壊率も57.2%と、全市平均30.8%の倍近くになる。焼失及び倒壊家屋が集中している地域は大正末期に建てられた築80年近い長屋が軒を連ねており、路地は人は通れるが、車は入ることができない。神戸は1945年、米軍によって3回の空襲を受け、市街地は壊滅したが、震災による発生した火災で焼失した地域はいずれも空襲で焼け残った結果、老朽家屋が密集していた。

  垂水区に住んでいて、当時灘区役所に勤務していた、神戸市 長田区役所 まちづくり推進課 総務課 庶務係長 久保田 正之氏は当時を次のように振り返る。「灘区もひどい被害を受けたのですが、JR神戸線が開通した3月終わり頃初めて電車で通った時、JR新長田駅周辺は南側も北側も一面の焼け野原で、本当に驚きました」(久保田氏)。

 

在日外国人も多数住む庶民の街を地震が直撃


人・街・ながた震災資料室
事務局 清水 誠一氏

  明治時代、現在の長田区の東側地域には造船所や製糖工場、製粉工場、発電所、マッチ工場等が次々と建設され、マッチ工業は神戸の主な輸出産業となった。マッチ工業は大正時代中期、急速に衰退するが、入れ替わるように、第1次大戦で需要が伸びたゴム産業が急速に発展した。一方、造船所などの大工場も富国強兵策を取る政府の下で、軍艦が次々に建造されていったことから、その規模を拡大していった。

  マッチ工業は現在の長田区と兵庫区にあたる地域が中心で、ゴム工業はマッチ工業の内職や下請を受け継いで発展していったことから、長田区は神戸のゴム工業の中心となった。また、造船所の拡大に伴って、西日本各地や朝鮮半島から働きに来る労働者が急増し、大正時代中期から末期にかけて、多くの労働者が長田区に住むようになった。

  長田区在住で、震災当時区役所職員だった、人・街・ながた震災資料室 事務局 清水 誠一氏は次のように語る。「震災で焼けたのは、地方から出てきた労働者が住んでいた所です。人口の移動も少なく、どこも戦前から住んでいました。例えば、近所のうどん屋さんも、長田にはおじいさんが住み着いて、敗戦後親子2代にわたって商売をしてきたといっていました。住み始めたのは、丁度大正時代の真ん中頃ではないでしょうか」(清水氏)。

  さらに戦後になり、朝鮮戦争で生ゴム価格が急騰する中で、1952年塩化ビニルを材料とするケミカルシューズが長田区で生まれ、ゴム工業に替わって、ケミカルシューズ産業が発展した。そして、長田区の中心部であるJR新長田駅を中心にした非常に狭い地域に、ケミカルシューズ産業の内職や下請け仕事をする多くの人々が住んだ。こうして、1970年代後半には公衆浴場が70軒もあり、質屋も神戸で一番多いという庶民の街ができあがった。さらに、1980年代以降は戦前から居住する在日韓国・朝鮮人とは別に、ニューカマーといわれるベトナム人など外国人労働者もケミカルシューズ産業を中心に多く働き、住むようになった。

 

区民の半数以上が避難所に避難した時期も

  1995年1月17日、その街を地震が襲った。築80年にもなろうという古い家屋が倒壊し、狭い路地を挟んで立ち並んでいた長屋から出火すると、道路が狭いので、火はすぐに回る。その結果、27件の火災が起こり、4,759軒、延べ52万平米を超える家屋が焼失した。区内の死者921人の内、3分の1を超える380人が焼死であり、家屋倒壊による圧死が9割を占める阪神・淡路大震災全体の死者と比べると極めて高い。「それでも、住民の人がかなり火を消したのです。屋根に上って、ほうきで火を払って、延焼を防いだり、区東南部の真野地域では工場の夜勤者の消防隊と住民が一緒になって、火を消し止め、街が火事になるのを食い止めました」(清水氏)。

  区の中部・南部が壊滅的な被害を受け、まさに「長田の街が潰れた」といえるような状況の中で、区民の多くは自宅から公園や学校などに避難した。避難所の数は最大で84ヶ所、避難者数は6万6,000人余に上り、震災直前の人口13万人弱の約50%を超える人々が避難した。

 

避難先での肺炎による死者を防ぐために活動


NPO法人阪神高齢者支援ネットワーク
理事長 黒田 裕子さん

  阪神・淡路大震災では人口密集地で地震が早朝に起こったこともあり、被害は都市中心部の老朽化した住宅に住む高齢者を中心とした人たちに集中した。それが凝縮して現れたのが長田区である。さらに、命の危険は震災による家屋の倒壊や火災から生き延びた人たちにも及んだ。震災発生当時、宝塚市立病院の副総婦長で、市役所の総合体育館に開設された総合救護センターで災害救急に取り組み、その後より悲惨な神戸市長田区の避難所の支援に入った、NPO法人阪神高齢者支援ネットワーク 理事長 黒田 裕子さんは次のように語る。「震災発生から1ヶ月経った頃、マスコミで孤独死など神戸の大変さが報道されるようになりました。そんな中、神戸の医療関係の仲間から、『今手を打たないと、死者がさらに増えて、大変なことになる』といわれ、長田に駆けつけました。真冬の寒い中、学校などの屋根のある避難所に入ることができず、公園にいる高齢者がたくさんいました。学校の体育館にいても、寒さで体調を崩すのに、公園はさらにひどい環境で、そのままいたら、肺炎を起こしてしまいます。そこで市と交渉して、市の特別養護老人ホームを入ってもらい、救護センターも兼ねた形で高齢者が肺炎を起こさないようにして、重症の人は長田協同病院と連携して、入院、治療するという活動を続けました」(黒田さん)。

 

震災前から差別されてきた在日外国人を支援


NPO法人神戸定住外国人支援センター
理事長 金 宣吉(きむ そんぎる)氏

  高齢者と並んで、大きな被害を受けたのが在日韓国・朝鮮人や外国人だ。神戸新聞によると、神戸・阪神間の被災地には5万人余りの在日韓国・朝鮮人が住んでいる。地震による犠牲者は121人(兵庫県調べ、最終131人)。家屋の被害は、韓国民団の調べで全・半壊約6,000世帯。朝鮮総連が調べた全焼・全壊は約2,200世帯で、「被災率は日本人の倍以上」と指摘する人もいる。一方、震災による外国人の死者は県内で、174人(兵庫県調べ、最終199人)、国別人口に対する死亡率はほとんどの国籍で日本人を上回ったという調査もある。3,000-5,000人と推計される超過滞在者も含めると、負傷や家屋の倒壊など被害の全体像はつかみようがない(『大震災 問わずにいられない』-神戸新聞社・編)。

  長田区出身で、大学卒業後関東で働き、震災直後に長田区に入って、ボランティア活動を行い、1995年4月に兵庫県定住外国人生活復興センターを設立した、NPO法人神戸定住外国人支援センター 理事長 金 宣吉(きむ そんぎる)氏は次のように語る。

  「私が神戸に戻ってきたのは、公園での炊き出しのようなボランティア活動をするためではありません。震災後に、取り残されるのは在日韓国・朝鮮人ら外国人などの“持たざる者”たちです。震災前から、社会的に差別されてきた彼らは自分たちの力だけでは立ち上がれないのです。そうした人たちの力になりたいと思って、長田に帰ってきました。震災直後に受けた相談でも、被災した在日韓国人の青年が全国紙の新聞奨学生に申し込んだところ、国籍を理由に拒否されるという、信じられないようなものもありました。また、イラン人窃盗団を警戒するという名目で、ゴルフクラブを持った自警団が作られるということもありました。もしそこをイラン人が通りかかったら、どうなったでしょうか。関東大震災で朝鮮人を虐殺した自警団のようなことが起きたかもしれません。それから、震災復興の仕事で、建設現場で働いていたベトナム人の賃金未払いや住宅入居のための相談なども数多く受けました」(金氏)。

 

街と産業の復興に努めるも、人口は震災前に戻らず

  震災後、神戸市は復興を目指して、災害に強い街作りを進める必要性のある区域を「震災復興促進地域」、その中でも特に緊急かつ重点的に市街地整備を促進すべき地域を「重点復興地域」に指定した。長田区では大半が震災復興促進地域に、また地下鉄長田・大開駅周辺、御菅、真野、JR新長田駅周辺など8地区が重点復興地域に指定された。そして、JR神戸線を境に、北側で住民が土地の一部を出し合い、宅地と公共用地を整備し直す区画整理事業、南側で、敷地を共同化し、高度利用して公共施設用地を生み出す市街地再開発事業が行われた。長田区の区画整理事業と市街地再開発事業は両方で118ヘクタールという日本で最大の規模であり、区画整理事業は2010年度で完了した。

  しかし、街作りという観点で考えると、いずれも事業も課題が多い。借地・借家人や零細事業者が多かったり、元の宅地面積が狭い場所で、区画整理を行うのは困難だ。また市街地再開発事業は高度利用で生み出された床(保留床)を売却して、事業費に充てることが前提だが、長田区の市街地再開発では保留床が売れず、多額の負債を抱えている。さらに、それ以上に難しいのが、国や自治体が関与する区画整理・都市再開発事業地域以外の「白地地区」の復興だ。密集住宅市街地整備促進事業の補助などを利用しながら、共同建て替えが進められたが、権利調整の難しさや資金の問題があり、成功したケースは少ない。

  また、最大の産業であったケミカルシューズ産業も厳しい状態が続いている。JR新長田駅北地区の区画整理事業は阪神・淡路大震災の被災地で最大規模だが、区画整理後建てられた建物は多くなく、空き地がある。空き地にあったケミカルシューズメーカーとその下請けの町工場の多くは戻ってきていない。ケミカルシューズ産業は卸は復興したものの、製造過程が抜けた状態になったままで、日本ケミカルシューズ工業組合の加盟企業数は2006年末で126社と震災前の3分の2を切っている。また、区画整理・再開発地区の人口は2005年段階で、神戸市全体が1990年の103%と震災時を上回っているにもかかわらず、長田区内は75%にとどまっている。これらの結果、長田区の人口は2009年10月段階で、10万1,518人と震災発生直後の1995年10月の9万6,807人は超えてはいるものの、震災発生前の1994年10月の13万466人まで、戻っていない(図1)。

 

日本社会の弱さや課題として認識することが必要

  さらに、1997年から2000年までの3年間で、兵庫県全体で震災前の10年間に供給された公営住宅の2.5倍以上の災害復興公営住宅が新たに供給された。それに伴って、長田区内にも高層の復興住宅が多数建設されたが、避難所-仮設住宅-復興恒久住宅という単線型プログラムが基本にあり、抽選で入居者を決めるなど、コミュニティの再建を意識したものではなかった。そのため、入居者の高齢化と併せて、孤立した状態で生活する人も多い。こうした長田区の現状について、清水氏は次のように語る。「以前、山田洋次監督が資料室に来てくれたことがあって、『長田の復興をどう思いますか』という質問に次のように答えました。『多分、寅さんだったら、こういうねえ。“皆、こんな高い建物の中に住んで幸せかい。長田は人情のある街だから、いいよねえ”と』。この言葉に、すべてが凝縮されているように思います」(清水氏)。

  こうして見ると、長田区における震災の被害とその後の復興過程で、教訓とすべきことは多い。何よりも、現代の日本の社会は高齢者や障害者、在日外国人など社会で声を上げるのが難しい人々が災害の犠牲になりやすい構造になっていることが明らかにされた。そして、これらの人たちは生活の基盤となっている住まいや街が破壊されると、一般の人たちよりも打撃が大きく、自力で生活し、人生を立て直していくことが困難だ。

  ところが、震災の直接的な被害だけでなく、復興過程においても、そのことが十分に意識されたとはいえなかった。その結果、ハード面での復興はなされても、人間が生きていく上で欠かせない地域の人々とのつながりと支え合いを十分に作り出すことができなかった。それが現在に至る孤独死の多発などを生む大きな要因となっている。その一方で、こうした人々を支える多数のボランティアやNPO、NGOの活動が様々な役割が果たしたことも事実だ。そして、そこにこそ、これから、私たちが今の社会で、人間らしい生活を送ることができるようにしていくための可能性が存在している。これらは長田区だけの問題ではなく、現代の日本が抱えている弱さや課題であることを今、認識することが求められているといえるだろう。

 

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