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阪神・淡路大震災から何を学ぶか

1995年に起こった阪神・淡路大震災。
6,434名に及ぶ死者をはじめ、被災した多くの人たちは深い悲しみと大きな打撃を受けました。また、震災の爪痕は深く、15年経った今なお、その被害に苦しんでいる人々も多くいます。一方で、この数年を見ただけでも、全国各地で地震や集中豪雨、台風による災害が発生し、多くの犠牲者が出るなど、阪神・淡路大震災の教訓を生かすことは極めて重要になっています。
「阪神・淡路大震災から何を学ぶか」というテーマで、12回にわたって、その教訓を明らかにしていきたいと思います。

第1部 阪神・淡路大震災の記憶と課題

 

大震災における医療問題を考える

第6回 インフルエンザで拡大した震災関連死―防止のカギは3日間以内の被災地外への転送

神戸医療生活協同組合 神戸協同病院 院長 上田 耕藏(うえだ こうぞう)さん

連載第6回は「震災発生直後の医療活動と震災関連死」について、神戸医療生活協同組合神戸協同病院院長上田耕藏氏に話を聞きました。

 

全国からの支援の下に医療・地域支援活動を開始

上田先生は震災発生時、院長を務めていたとお聞きしました。
当時の様子をお聞かせ下さい。


図1. 1月17日から2ヶ月間の医療・地域支援活動
(出典:『おまえらもはよ逃げてくれ
阪神大震災 神戸医療生協の活動記録』)

上田 病院内は物がひっくり返って、めちゃくちゃでしたが、医療活動は可能でした。そこで、軽傷者は病院の前にテントを立てて対応、縫合が必要な人などは病院内で診察しました。それから、外来待合室のソファー、2階のリハビリテーション室と廊下にもイスを並べて、臨時ベッドにしました。入院する人が次々にやってくるので、症状の重い人は、被害がなくてより高度な治療ができる病院に転院、軽い人には退院してもらいました。

神戸協同病院は医療生協の病院なので、震災発生当日の午前11時半、救急車で来た第一陣を皮切りに、全国からの支援者と物資が続々と到着し、病院の空きスペースは寝場所と支援物資の置き場になっていきました。

一方で、地域に出て行って、高齢者や障がい者を支援する活動をされたと聞きました。どのような活動をされたのでしょうか。

上田 大勢来た支援者の意気込みに押されて、始めたのです。震災発生2日目の18日夜、支援にやってきた人たちの意気込みに溢れた顔を見たら、「夜なので、寝てください」とはとてもいえませんでした。最初に来る人たちは皆、血気さかんで使命感にあふれているので、その人たちを「休ませてはいけない、仕事を作らなければ」と思いました。ちょうど、近くの真陽小学校に5,000人もの人が避難している中で、風邪が流行っていたので、支援の人たちでチームを組み、避難所への救護班の派遣を始めたのです(図1)。

避難所への診療を始めて、1週間が経った1月26日には厚生省派遣の医療班の診療態勢が整ったため、避難所に行かずに家にいる人たちに、カゼ薬やカイロを配る地域ローラー作戦に切り替えました。その後、しばらくして、開業医の先生方が診療を再開し始めたので、開業医の診療とバッティングするカゼ薬の配布を止めました。

 

毎週変化するニーズに対応、活動内容を変える

その後はどうされたのでしょうか。

上田 他にやることはないかと皆で考えました。そして、2月5日から高齢者の生活支援を始めました。その頃には、炊き出しが行われるようになっていて、若い元気な人たちは、食べ物の受け取りに並べるのですが、高齢者や障がい者は表に出ることができず、並べません。そこで高齢者向けにおじやを作って配ると共に、銭湯に行けない人に対して、ドライシャンプーを使った洗髪活動を行うことにしました。併せて、長田区内唯一のデイサービスセンター「さるびあ」の病弱高齢者専用避難所としての開設を支援、回診や急変時の入院対応など医療面でのバックアップを行いました。

めまぐるしく活動内容が変わっていますが、どうしてなのでしょうか。

上田 地域には様々なニーズがあるのですが、その内容は毎週のように、大きく変わります。震災発生から時間が経つと、自立する人が増える一方で、うちひしがれて、がっくり来る人もいます。そして、そこに様々な支援が入ってきます。発生後1週間位は、支援の人もバラバラとやって来ますが、2週目になると、組織的に入って来るようになりました。しかし、地域の住民すべてに支援が行き届いているわけではないし、状況も毎日のように変わっていきます。それに、対応していったわけです。

それは意識的にやられたことなのですか。

上田 普段は朝から晩まで病院の仕事で忙しく、いろいろと考えている余裕はありません。ところが震災後はボランティアの医者がたくさん来たので、次に何をしたらよいのかを考えることができる時間がとれました。被災者は地震で家が潰れ、それが大きなダメージになって、病気になっているわけです。それを解決しなければ、病気は治りません。そこから、人々の健康にとって、住宅の問題が大きいことに気が付き、早く仮設住宅を作り、その後、恒久住宅を建てなければならないと考えるようになりました。そして、仮設住宅の段階になって、病弱者や障がい者、高齢者用の仮設住宅に往診に通うと、住人は医療面のサポートだけでなく、ふれあいを求めていることが分かりました。そうした1つひとつの経験から、今までの病院での診察を通して考えていた社会とは全く違う世界が見えてきて、私の世界観は大きく変わりました。

 

福祉の弱さの結果が生み出した大量の震災関連死

震災関連死もその過程で明らかになったのでしょうか。

上田 震災関連死は私が最初に言い出したことになっていますが、自分で気付いたわけではありません。新聞記者の人に「避難所で肺炎が多発して、亡くなっている人がいるという噂を聞いたが、本当か」と質問されて、最初は「そんなことはないと思う」と答えたのです。けれども、同じ質問をする記者がたくさん来るので、カルテを見直してみたら、肺炎で入院して亡くなっている人がいることに気が付きました。そこで入院患者のデータベースを作って調べると、普段より肺炎で亡くなっている人が多く、記者たちのいうことが当たっていることが分かりました。医者として、病院の中のことは見えていなければいけないのに、気が付かず、大変にショックでした。

2003年策定の病院の基本方針では「震災の経験を生かし、発生時には災害福祉と連携して災害医療を行う」とあります。もう少し詳しくお聞かせ下さい。

上田 震災で一番痛切に感じたのは福祉が問われたということです。たとえ倒れた家の下敷きにならなくても、病弱な高齢者などはその後の環境悪化で病気になり、少なくない人が亡くなりました。それが震災関連死です。それを防ごうとしたら、弱る前に病院や介護施設に入院・入所させなければなりません。ところが、震災当時、神戸市の特別養護老人ホーム(特養)設置率は政令指定都市で下から2番目で、1ヶ所しかないという福祉の弱さを、地震に突かれました。

大災害で最も被害を受けるのは高齢者などの弱者です。特に家族介護を受けている人は普段でもギリギリの状態なのに、地震が起きたら、家族は介護どころではありません。ですから、私たちはその人たちをすぐに見に行き、弱り切る前に保護しなければなりません。それが災害福祉で、病気の人は入院させる必要があるので、福祉と医療の連携が求められます。

 

阪神淡路の教訓が生きた中越、中越沖の高齢者保護

2004年に中越地震、2007年には中越沖地震が起こりました。
高齢者の保護という点ではどうでしょうか。

上田 阪神淡路大震災の時は介護保険制度がまだ施行されていませんでした。神戸市の市街地では各区に特養はあっても1カ所しかなく、少数の要介護高齢者の受入しかできませんでした。加えて、当時特養への入所は行政命令の措置でしたから、役所に申請しなければならず、簡単には入れませんでした。そのままでは保護が進まないので、長田区の特養施設長は携帯電話で厚生省に直談判しました。その結果、震災発生4日後に、審査なしでの入所、定員オーバーも構わないという指示が出ました。

中越地震では阪神淡路の経験に学んで、発生翌日には厚労省の指示が出ました。また、介護保険が始まって4年が経ち、特養が地域に配置されていたことで、2週間ほどで保護が必要となった人の8割を収容できました。阪神淡路で、4日目から始り、1-2ヶ月かかって、ようやく保護が完了したことと比べれば、雲泥の差です。2007年の中越沖地震でもスムーズに行きました。その意味で、中越や中越沖のような中規模地震では、高齢者の保護はうまくいったと思います。

ただ今後、発生が予想される東南海地震や首都直下型地震などのように、被災地が非常に広く、被害が甚大な場合、それほど簡単ではないと思います。中越でも被災の中心だった小千谷市では4つの施設の内、設備の破壊などで2カ所で受入が不可能となりました。ある特養では受水槽が壊れて、使えなくなり、入所者を他に移さなければなりませんでした。また小千谷総合病院では配管設備が壊れたため、入院患者を併設の老人保健施設に移し、緊急保護を受け入れられませんでした。そう考えると、特養が地域に10ヶ所程度あっても、すべてが緊急保護を受け入れられるわけではありません。他に移さなければならない可能性もあるので、事前に施設間で移送の協定等を結んでおく必要があります。

 

震災関連死を防ぐカギは医療チームとケアマネージャー

上田先生は様々な地震の被災地支援に行っておられると聞きました。
その経験から、どんなことを教訓にできますか。


図2. 阪神淡路大震災と中越地震の関連死の比較(上田 耕藏氏作成)

上田 中越と中越沖、1999年の台湾大地震、2008年の四川大地震、2009年のハイチ地震の支援活動に行きました。ひとことでいうと、地震によって、被害の現れ方はすべて異なるということです。地震の規模、時間、場所、季節、さらには時代によって、被害は変化します。特に海外は、気候や風土、社会インフラの状況などが日本と全く違うので、国内の経験はそのままでは教訓になりません。

国内で見ると、阪神淡路大震災では真冬でインフルエンザの大流行が起こったことで、犠牲者が増えました。インフルエンザの流行がなければ、震災関連死者の数はもっと少なかったと思います(図2)。そのことに、昨年の新型インフルエンザのパンデミックで、気が付きました。当時から、インフルエンザで亡くなっている人がいるといわれていましたが、インフルエンザにかかって、避難所の中で肺炎を起こすのです。当時はインフルエンザの感染判定キットもありませんでしたし、感染症対策も今のようにきちんと行われておらず、関連死者が増えました。


図3. 救急活動記録による関連死疾患の発生動向推定
(出典:『地域安全学会梗概集(23)』太田裕、小山真紀)

震災関連死は
どうしたら防げる
のでしょうか。

上田 関連死の発症は救急車の出動件数の推移と平行しますが、その大半は最初の1週間に発生します。ことにストレスに弱い人は3日で亡くなられます(図2, 図3)。ですから、地震発生から3日間位の間に、被災地に医療チームが集中して入り、病気の人を被災地の外に出さなければなりません。被災地内で治療するのではなく、被害を受けていない地域の病院に運び出して、治療するのです。被災地で治療しようとしても無理なので、外への転送が鉄則です。

具体的には、どのような態勢が必要なのでしょうか。

上田 ふたつあって、ひとつは被災地外転送を実行する医療チームです。具体的には、阪神淡路大震災で、被災地外への転送が初めて意識化された後、厚労省が中越地震を契機に発足させ、中越沖地震などに出動している「日本DMAT(災害時派遣医療チーム)」です。DMATは災害発生から大体48時間以内の急性期に活動できる、機動性を持った専門的な訓練を受けた医師や看護師などで構成されます。素早く被災地に入り、被災地外にけが人や病人を早く出し、救える命を救うことが使命です。

もうひとつは介護保険制度の下で、地域に配置されているケアマネージャーの活用です。ケアマネージャーは利用者と1対1の緊密な関係を築いているので、安否確認をはじめとして懸命に動きました。保護を必要としている人を早く把握し、被災地内外の施設と交渉して緊急保護先を決めて行きました。特に大規模災害では、その果たす役割が非常に大きく、死者を最小限に食い止めるために力を発揮できると思います。介護保険の対象外の病弱者や障がい者は自治体が平常時から把握して、万一災害が起きた場合には、災害看護を中心にしたチームが入って対応するのです。

 

 

上田 耕藏(うえだ こうぞう)


 

1951年、大阪市生まれ。1975年、神戸大学医学部卒業。その後、神戸医療生活協同組合神戸協同病院に勤務、1993年、同病院院長、1997年、社会福祉法人駒どり理事長に就任、現在に至る。

主な著書は『地域福祉と住まい・まちづくり/ケア付き住宅とコミュニテイケア』(学芸出版社、2000年)。

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