25歳の夏、仕事を辞めた僕はインドにいた。

リュックサックに本を何冊かだけ詰め込んで、飛行機に乗った。
目指すはインド第二の都市、コルカタ。ずっと行きたかった街だ。

初めてのインドは僕の期待を裏切ることはなかった。飛行機から降りた瞬間にカレーのスパイスの香りがした。それも僕が今まで嗅いできたことがないくらいとびきり強烈な匂いだ。

空港から一歩外に出ると、インド人たちがズラリと並んでいた。
「タクシーで街まで連れてってやるよ!」と何人ものインド人に取り囲まれる。この言葉は信じてはいけない。空港で日本人に話してかけてくるやつは全員もれなくぼったくりだ。これはインドに限らず東南アジアで共通している。

僕はそれまでに何回も騙されてきていたので、声かけをスルーして空港よりちょっと離れたところでタクシーを捕まえ、安宿街に向かう。それでも結構高めの料金を取られていたと後で知るのだけど、もうそれは日本人価格として諦めるしかない。

コルカタには「マリア」という有名なバックパッカーの宿がある。宿といってもスプリングがぶっ壊れたベッドがずらりと並べられているだけの大部屋で、カーテンや仕切りはなく、老若男女、全世界から集まってきたバックパッカーたちが、お互い気にするわけでもなく、平気で着替えたりと、思い思いに過ごしている。まさにバックパッカーが泊まるのにふさわしい、インドらしさが溢れている宿だ。

僕は目的なしにただインドに来たわけではなかった。マザーテレサが作ったマザーハウスというボランティア施設にずっと行きたくて、仕事を辞めて来てしまったのだった。
あなたは『死を待つ人の家』をご存じだろうか。

この施設を知ったのは高校の英語の授業だった。マザーテレサの伝記を英語で読むという授業でマザーテレサを初めて知り、僕はめちゃくちゃ感銘を受けた。
マザーテレサは裕福な家で育ったお嬢様だったのだが、36歳のときに祖国を離れ、インドで貧しい人たちのために生きると決意し、その人生を終えるまでコルカタで活動をした。

「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない。自分はこの世に不要な人間だと思い込むことだ」

これはマザーテレサが残した言葉だ。
まさにこの言葉がマザーテレサの活動そのものだが、彼女は路上で死にかけている人を施設に連れてきて、看取っていた。今でいうホスピスのような施設だ。

インドにはたくさんの路上生活者がいる。街を歩けば、そこらじゅうに横たわった人がいる。死を待つ人の家は、死にかけている路上生活者を担架で運んできて、最後のときをみんなで見守ってあげるのだ。

施設には毎日たくさんの人が運ばれてきて、そして毎日亡くなっていく。
僕は朝から施設に行き、洗濯をして、身の回りの世話をしたり、痛そうにしている人の体をずっとさすってあげたりする。そして翌日来てみると、昨日背中をさすってあげていた人が亡くなっていることがあるのだ。
死を待つ人の家では看取ることしかしない。治療などはしないのだ。とにかく安らかに死んでいけるよう、みんなで見守る。

「最も大きな苦しみは、やはり孤独です。愛されていないと感じることですし、だれ一人友がいないということなのです」

これもマザーテレサの言葉だ。
僕は死を待つ人の家に行くまでは、「死」を意識することはなかった。日本で過ごす多くの人は、死を身近に感じることはない。しかしコルカタでは「死」が日常の中にあった。
本当に道端で人が死んでいるのだ。日本だったら大問題になりそうだが、インドではそれに対する解決法なんてないんだろうな、と毎日運び込まれる路上生活者のことを見て思った。だからせめて最後だけでも「あなたのことを愛しているよ」と見送ってあげるのだ。

僕は2ヶ月間ボランティアをしていたのだが、その期間、たくさんの人を見送った。「死」に慣れることはなかったけど、看取るときは手を握って「愛しているよ」と精一杯伝えた。言葉は通じないけど、触れることで伝わることだって、きっとあるはずだ。そう信じて体をさすり続けた。

それが伝わっていたかはわからないけど、中には笑って僕の顔を見てくれる人もいた。彼らがどういう人生を送ってきて、路上で死にかけていたかはわからない。たぶん辛いこともたくさんあったはずだ。しかし僕ができるのは横で背中をさすってあげることだけだった。

2ヶ月が経ったとき、このままインドに留まってボランティアを続けていくか、真剣に考えた。もっとここにいたい気持ちがあった。そんなとき、マザーテレサの言葉を思い出した。

「世界平和のために何ができるかですって? 家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい」

これはマザーテレサがノーベル平和賞を受賞したときにインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか?」と尋ねられたときの返答だ。

僕はインドに来る前から当然この言葉を知っていたのだが、日本に帰るかどうか迷っていたときに不意に思い出した。

「家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい」

マザーテレサは僕に向かってそう言ったのかもしれないな、と感じた。
インドの路上をずっと歩き回って、たくさんの人をたすけ続けてきたマザーテレサが行き着いた答えは「家族を大切にする」だった。とてもシンプルだし、意識するだけで今すぐにできる。

「家族」を、「自分の周りにいる人」と言い換えることもできる。自分の手の届く範囲でいいから、手を差し伸べてたすけることができたら、世界は平和に向かっていくのだ。

インドまで行かなくても、自分の周りを見回してみれば、困っている人や、孤独を感じている人はたくさんいる。僕はそんな人たちに声を掛けるようにしているし、手だすけをするようにしている。逆に僕もそういう何気ない一言で心が励まされてきたし、たすけ舟に救われたこともあった。

世界平和とかスケールの大きい話でも、結局は半径5メートル以内の人のことを大切にすることから始まるのだ。マザーテレサが言っているのだから間違いない。
最後はマザーテレサが残した言葉で締めくくりたいと思う。

「あなたたちは、もっと身近なことから始めたらどうかしら」

(イラスト:シムシム 編集:はつこ)