みんなが自然と「たすけあい」を楽しめる瞬間を増やすには? でも、そんな社会はピンとこないし、どうしていいのかわからない。私たちこくみん共済は、そんな戸惑いに寄り添い、「たすけあい」をENJOYするための7つのヒントを掲げます。今回は、ヒント2『ちょっとの勇気がスタートライン』をテーマに、ライターのくりたまきさんに文章を書いてもらいました!

「誰かをたすける勇気があるか」
もし尋ねられたら、あなたはなんて答えるだろう?

わたしはたぶん、答えに窮してしまう。「そんなものは備わっていない」と感じるし、かといって自分をなにもできない臆病者だと認めるのも抵抗がある。そもそも、わたしは他人をたすけられるほどの人間なのか、と戸惑いもするだろう。

『ちょっとの勇気がスタートライン』というヒントについて書くというのに、いきなり意気地のない言葉を並べてしまったけれど、本心だ。

電車で座席を必要とする人へゆずる、街で道に迷っている人に声をかける、などなど。ちょっとしたことなのだけど、そのちょっとの勇気が出てきてくれないシーンは多い。そんな意気地なしの自分にがっかりすることもある。わたしが今でも覚えている、苦い思い出を聞いてほしい。

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大学生のころ。電車に乗り、座ってうたた寝をしていたら、隣の……こう言ってはなんだがチャラそうな格好をした若い男性が、立ち上がって「どうぞ」と目の前に立っている女性に席をゆずった。電車が停まったわけでもないのに急に立ち上がるものだから、どうしたのだろうと意識が隣へと向いた。

隣に座った女性を横目で見る。彼女がカバンにつけているピンクのマークでハッと気づいた。この女性は、お腹は膨らんでいないものの、妊婦さんだ。気づかずにいた自分が恥ずかしくて、どっと汗が出た。隣の席だった彼は、気づいたのに……とっつきにくそうな雰囲気の彼ですら。そう考えて、人の外見で勝手に内面を推し量っていた自分に愕然として、さらなる恥ずかしさを覚えた。もう完全に眠気は吹き飛んでいた。

どうして気づけなかったんだろう。罪悪感は胸の片隅を占拠して、消えてくれない。つい、大学で教授の部屋に遊びに行ったときに、電車での出来事を話してしまった。教授はわたしにマナーを教えるわけでもなく、ましてや責めるわけでもなく「妊婦さんは席に座れたんだから、よかったじゃないか」と微笑んでくれた。「深く悩むくらいだから、きっと次は気づけるよ」との言葉も添えて。

わたしはそんな見方があったんだと驚いて、少しのあいだ放心してぼうっとしてしまった。我に返って、教授のやさしさに微笑み返そうと顔を動かしたけど、顔をくしゃっとさせてただけだったんだろうな。

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勇気は奮い立たせるものではなく、誰かから分けてもらうものなのかもしれない。この一件から、自分の周りで起きる「たすけあい」と自分が誰かにたすけられたことを、勇気のかけらとして覚えておくようになった。誰かの「たすけあい」に貢献できない罪悪感を覚えるよりも、その経験から勇気と知恵をもらって行動できる自分になればといいのだ。

なにより、無知で勇気のない自分でいることは、勇気を出して失敗するよりも痛いのだと学んだ。

勇気のかけらは、身近で十分に集められた。

たとえば、新卒で入った会社の同期に「街で道を聞かれると7歩は一緒に歩く」というルールを持つ関西人がいた。彼は、歩いてきた道を戻ってでも迷った人と並んで歩いていく。わたしが「親切だね」と称賛すると「7歩は一緒に歩いたるんや。こんなん当たり前やろ!」と返した。それ以降、わたしも道を聞かれたら、ほんのちょっとでも目的地の方へ一緒に歩くようになった。周りの人から学ぶことは、いつだってある。昔のわたしよりは、今のわたしのほうが、勇気を知っているんじゃないかなあ。

とはいえ、「誰かをたすける」というと、なけなしの勇気が怖気づいて引っ込みそうになる。街で困っているひとを見かけても「たすけましょうか?」とは、大げさで上から目線な感じがして言いづらい。たとえ相手がたすけられたと感じたとしてもだ。それに、もしかしたらおせっかいだと思われるかもしれないし、断られるかもしれない。嫌な気分にさせてしまう恐れもある。

でも、そうやって言い訳や弱音が数え切れないほどあふれてきたとしても、困っているひとがいたらできる限り声をかけると、わたしはもう決めているのだ。勇気は行動をともなって、はじめて勇気になる。怯える心があっても、勇気は出せる。どうしていいのかわからないとき、わたしはこの言葉を使って乗り切るようになった。

「あの、なにかお手伝いできることはありますか?」

誰かは忘れてしまったけれど「お手伝い」という言葉を使っているひとがいて、わたしも自然と使うようになった。これなら、なにをどう手だすけしていいのかわからなくても気持ちは伝わるし、同じ目線に立っている気がする。最初のひと言が発せられれば、あとは相手がどうしてほしいか知っていくだけだ。それに、もしも相手にとって手だすけが不要だった場合も断りやすい。最初のひと言が出てこない人にはオススメしたい。

わたしもちょっとは勇気が出せるようになってきたかも、と思える出来事があったのは、今年のまだ暑さが厳しくなる前のこと。出勤途中の日だまりの道で、立ち止まって話し込んでいる外国人たちと目が合った。合ってしまった、とも思う自分もいた。荷物の多さと服装から、観光客なのだと察せられた。たぶん、道がわからないのだ、とも直感した。

「May I help you?」

友だちの会話を近くで聞いていたことがあるから、「May I help you?」という言葉で会話がはじめられるだろうことは、かろうじて知っている。身振り手振りを交えて話をして、彼らが道に迷っていることと行きたい場所はわかった。会社と同じ方向だったので、途中まで一緒に歩くことにした。

結果、なんとか道案内は成功した。

「Have a nice trip!」、よい旅をと告げて笑顔で別れると、ふうっと安堵のため息がこぼれる。全然スマートとは言えないけれど、なんとかなった。こんな些細な手だすけに、怯えていた心のなかの自分が「やったぞ!」と急に大事業をやり遂げたかのように誇らしげになる。俗っぽいやつめ、と我ながら苦笑した。もう30歳になったというのに、いつまで経っても、勇気を出すことに慣れないで、一喜一憂している。

ただ、スルーするより、ずっと心が軽かった。

やっぱり勇気は、自分のためにある。

勇気を出すことは、スタートライン。きっかけに過ぎない。だけどきっかけができれば、その先には「たすけあい」という一期一会の出会いがある。淡い点線のようなささやかなつながりかもしれないけど、よろこびとして胸に残って、未来の自分に勇気をくれる。

わたしにどれほどの勇気があるのかは、考えてみたけれど、わからない。きっと微々たるものなんだろう。けれど、今まで出会った勇気ある人たちのことを覚えている。その人たちから分けてもらったちょっとの勇気が、わたしを「たすけあい」のスタートラインに立たせてくれていることだけは、わかっている。