お母さんの代わりに、赤ちゃんをあやしたら

だれかにたすけてもらったら、
「ありがとう」と言う。

それが当たり前だと思っていた。
仕事でミャンマーに行くまでは。

ミャンマーの首都ヤンゴンからニャウンウーを結ぶ、飛行機の中。
母と私のほか、乗客の多くはミャンマー人だった。
離陸して30分が経った頃、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
通路を隔てて向こう側の席を見ると、ぐずる赤ちゃんを抱いて、
立ち上がったお母さんがいた。

ゆらゆら揺れてみたり、笑いかけてみたり、
お母さんは一生懸命赤ちゃんをあやしてみるけど、
赤ちゃんは力いっぱいわんわん泣いていた。

「赤ちゃんってなんであんなに泣くんだろね」
「ねむたいのに寝れないから泣くらしいよ」
「そんなにかわいい生き物がこの世に……?」

私は感動しながら、お母さんと赤ちゃんを見つめる。

すると、お母さんの肩越しに、赤ちゃんがこっちを向いた。
じーっと、私と母を見つめる。

母の表情筋が、流れるようにスムーズな動きで、
「べろべろばー」を繰り出した。

さすが二人の子を育てた親の瞬発力。
赤ちゃんのあやし方が板についている。
実際は「べろべろばー」の顔をしながら、発せられる言葉は「あわばばばー」だった。
赤ちゃんナイズされたマイルドな工夫に、もう頭が上がらない。

奇跡が起きた。赤ちゃんが、泣き止んだ。
「あわばばばー」の力を、私は見くびっていた。

少し経って、お母さんが泣き止んだ赤ちゃんに気づき、
そして私たちに視線が移った。
私たちがあやしていたのを、お母さんははっきりと目撃していた。

でも、お母さんは、表情ひとつ変えず、
スッと席に戻った。

えっ。

いや、決して、お礼の言葉がほしかったわけじゃないけど。
赤ちゃんがかわいくて、つい、あやしてしまったわけだけど。

でも、なんだか、違和感。

日本だったら「ありがとう」が返ってくると思った。
言葉が通じなくても、ペコリ、と頭を下げる人が多いと思う。
そうしてほしかったわけじゃない。
でも、それが当たり前だったから、自然と違和感を感じてしまったのだ。

お母さんが私たちを迷惑そうに思ったり、
不信感を持ったりしたわけではないと思う。多分。
なんというか完全なる「無」だった。

やがて、飛行機は着陸態勢に入った。

「ありがとう」と言うと、返ってくるのは不思議な表情

ミャンマーでは、もう一つ、おかしな感覚があった。

私の母は車いすに乗っている。
ミャンマーは、車いすで移動しやすいとはとても言えない。
道路はボロボロで、穴だらけ。

エレベーターやエスカレーターは、街中にはほとんどない。

ミャンマーに到着するまで、母はとても心配していた。
空港から一歩外に出ると、案の定、歩道はガタガタだった。

しかし、どこからともなくミャンマー人の男性が現れ、
母の車いすを押して、スタスタと歩いていく。

あまりの速さに、私は「オカンが盗まれた!」と思ったほどだ。
実際は盗まれたわけでなく、彼らは母をたすけてくれたのだ。

母一人では移動できなかったであろうボロボロの道も、
階段も、きつい坂道も、彼らのおかげで移動できた。

彼らだけではなく、一歩ミャンマーの街に出ると、
あれよあれよと老若男女の誰かが現れて、
車いすの母をたすけてくれる。しかも、何も言わず。

知的障がいのある人まで、母をたすけに来てくれたのには驚いた。

なんて優しい人たちなんだろう、と私たちは感動した。
その感動を伝えたくて、通訳さんから、
ビルマ語で「ありがとう」を習い、完璧な発音を練習した。

でも「ありがとう」と伝えると、みんな不思議そうな顔をする。
謙遜とかではない。
「え?なに言ってんの?」と、キョトン顔になるのだ。

違和感。違和感でしかない。これまた、あまりにも「無」すぎて、「たすけられたと思ったのは、もしかして幻覚……?」と思ったくらいだ。

この謎が解けたのは、通訳さんによる説明だった。

(※より詳しい説明はこちらの記事をご覧ください)

簡単に言うと、宗教が強く影響している。
ミャンマー人のほとんどが、日本ではあまりメジャーではない種類の仏教を信仰している。
輪廻転生を信じているミャンマー人には「徳を積む」ことが日常だ。
人をたすけるなど、良いことをすれば、徳を積むことができ、
来世は良い人間になることができる、という考えだ。

人をたすけることは当たり前で、
しかも自分のためにたすけたのだから、
まじまじとお礼を言いあうことは稀だそうだ。

あのとき、赤ちゃんを抱いていたお母さんは、
私たちが自分の徳を積むために、
赤ちゃんをあやしたと思っていたのかもしれない。

郷に入っては、郷に従え、と言う。
私たちもミャンマーの人たちならって、
「ありがとう」を言うのはやめようかなと思った。

思ったけど、結局、やめることをやめた。
例え自分のためにたすけてくれたのだとしても、
嬉しい、たすかった、と沸き起こった感動は確かなものだ。
その感動を、素直に、目の前の人に、伝えたいという気持ちが勝った。

どうしても、たすけてもらうというのは申し訳ないことのように思えて、
私たちは「ありがとう」と言いつつも、
自分たちがすまなさそうな顔をしていることに気づいた。

これでは、ミャンマーの人たちはもっと混乱してしまう。

できるだけストレートに気持ちが伝わりやすいように、
満面の笑みで「ありがとう!」と伝えることにした。

最初は、怪訝そうな顔をしていたミャンマーの人たちも、
同じホテルや車で何度もたすけてもらううちに、
笑顔で返してくれるようになった。

言葉を越えて、気持ちが繋がった気がして、なんだか嬉しかった。

たすけてもらったときの、正しい反応なんてない

たすけてもらったときの、正しい反応なんてない。
国によって、文化によって、当たり前は変わる。

だから、私は、自分の気持ちに素直になり、
自分がされて嬉しいという感覚に頼ろうと思う。

日々なんとなく過ごしている中で、
たすけてあげたら「ありがとう」と言われるのが当然と思い、
困っている人に手だすけを、押しつけてしまってるのかもしれない。
帰国してから、私はそんな風に思った。
押しつけるんじゃなくて「何かできることはありますか?」と、
できるだけ尋ねるようにしたい。

あとは、たすけてもらったときの振る舞いも。
申し訳なさそうに「ありがとう」と言うのをやめた。
申し訳なさそうなマイナスの気持ちは、思った以上に伝播する。
「えっ、なんだかこっちもごめんね」と思ってしまう。

人をたすけるというのは、勇気がいる。
そんな勇気を出してくれた人に、「よかった」と
思ってもらうためには、困り顔より笑顔の方が良いはずだ。

手だすけを押しつけられて「結構です」と、ムッとする人もいる。
じつは、ちょっとその気持ちもわかる
弱いものと見なされると、反発したくなる人もいるだろう。

声をかけたほうはその反応にショックを受け、
それ以来、誰かに声をかけづらくなった、という話もめずらしくない。

繰り返すが、反発したくなる気持ちは、わかる。

けど、グッとこらえて、まずは「ありがとう」と。
「今は大丈夫です」と言えたなら、声をかけた人は、
別の困っている人と出会ったときに、また声をかけようと思えるかもしれない。

2020年東京オリンピック・パラリンピック。
2025年大阪国際万博。

いろんな国の、いろんな文化の人たちが、いっせいに日本へやってくる。
あちらこちらで、たすけあいが生まれていく。

正解なんてない。

正解がないからこそ、自分はどんな風にたすけられたら嬉しいか、
どんな気持ちを伝えたいか、今から考えてみたいなと思う。

(写真:岸田奈美 編集:はつこ)