「たすけてあげたい」
「たすけてもらって嬉しかった」

そんな温かい感情から生まれる「たすけあい」。

今回は、私が過去に体験したお話と、寓話『天国と地獄のスプーン』から「たすけあい」について考えていきたいと思います。

「たすけてあげたい」という気持ち

これは私が小学生の頃の話なのですが、5年生のとき、近所にベトナム人の「タン君」という男の子が引っ越してきました。タン君は、日本語は流暢に喋れたものの、勉強やその他の生活面では先生が手を焼くことが多かったように思います。
近所に住んでいた私は先生から、「タン君が困っていたら、たすけてあげてね」とお願いされました。

私は、
・末っ子だし
・頼りないので人から頼られることも少ないし(現在も)
・気の利く性格ではないので、相手が何に困っているのかを察知できる自信もないし

そんな私に白羽の矢が立ったのは、近所だからという理由以外ないのですが、誰かに頼られるということは誇らしくもあり嬉しく感じました。

最初の方はタン君をたすけてあげたら、先生に褒められるかもしれない、みんなから尊敬の眼差しで見られるかもしれない、あわよくばモテる可能性も……(ない)などと、「たすける」ことに対する見返りを求めていた私ですが、タン君と接するうちに気持ちの変化が生まれてきました。

「タン君の困っている姿を見ると、なぜか私も悲しい気持ちになる、たすけてあげなきゃ」
そう感じるのです。でも誰かを「たすける」って最初は案外、勇気のいる行動です。

勉強が苦手だったタン君は宿題をよく忘れ、補助の先生によく叱られていました。私はそんなタン君をたすけたいと思いながらも行動に移す勇気はなかなか持てずにいました。勇気を出して「宿題を一緒にやろうよ」と言えたのはそれから少し経った頃。タン君は、私の家で一緒に宿題をするようになりました。

一緒にいる時間が以前より長くなって、分かったことが沢山あります。

・両親が共働きで、夕飯は一人で食べていたということ
・時間割の意味がわからず、毎日全教科の準備をランドセルに詰めていたということ
・地域の人から「外人」と陰口を叩かれ傷ついていたということ

相手を深く知ることは、相手を理解することであり、それは嬉しくもあり、同時に悲しくなることもあるのだと、私はその時はじめて知ったように思います。

近くで私とタン君の会話を聞いていた母親は、「今日は一緒に夕飯を食べようか」とタン君を誘ったり、ご近所づきあいが活発だった我が家は何かあるたびにタン君一家に声をかけるようになりました。

そうこうしているうちに、タン君は先生から叱られることも少なくなり、地域全体、クラス全体がタン君、そしてベトナム人一家を温かく迎え入れる雰囲気となっていきました。

私や母が何もしなくても、いつも和やかで愛嬌のあったタン君だから、いずれは皆の輪に溶け込んでいけたと思うのですが、その手だすけを積極的に行えたこと、「たすけてあげたい」という気持ちを行動に移せたことは、今でも私の中で、誇らしい経験の一つとなっています。

「たすけられる」ということ

それから月日が経ち6年生になる直前、持病のあった私は、検査の結果が良くなかったのをきっかけに入院することになりました。
退院したときにはクラス替えをしていましたし、医師の判断で登下校は車送迎、運動はドクターストップがかかっていたため体育や休み時間は教室で過ごしていました。同級生たちと接する機会はどんどん減り、一人で読書をして寂しさを紛らわせていたように思います。

授業も完全に遅れをとってしまい、歴史の授業は流れがよくわからないまま気づけば室町時代。数ヶ月いないだけで、友達の話題にも微妙についていけないこともよくありました。

するとタン君が、たすけてくれるのです。
「今、江戸時代をやっているよ。俺もよくわかってないんだけど(笑)。その前は鎌倉時代で、先生はこの漫画を読むといいと言っていた」
「今クラスでは、魔法陣グルグルっていうアニメが流行っているよ、録画してるけどビデオいる?」

など、本当に些細なことだったのですが、タン君のさりげない優しさが私にはとても嬉しくて、「たすけてもらったな?」と、当時を思い出すだけで、今でも心がジンワリ温かくなります。

寓話『天国と地獄の長いスプーン』から考える「たすけあい」とは

「たすけあい」とは相互的なものだけど、それ以前の感情が大切なのではないか?と私は一連の体験から感じました。なぜなら、相互に起こることも、少し掘り下げて見てみると、どちらかが先に行動を起こし、そこに感情が生まれ、結果的に「たすけあい」へとつながっていると感じるからです。

自分でも、ちょっと何を言ってるか分からなくなってきたので、寓話「天国と地獄のスプーン(箸という説もある)」を例に説明していこうと思います。

***

ある男が、閻魔大王に頼んで、天国と地獄を見せてもらった。ちょうど食事の時間だったのだが、天国も地獄も、長いスプーンで食事を摂らなければならない決まりがあった。
しかしこの長いスプーン、あまりに長いので自分の口に入るまでにこぼれ落ちてしまう。
そのため地獄では、何も食べられず皆が痩せこけ、他の者の食べ物を奪い取ろうと争いが起きていた。
しかし、天国を見てみると、人々は皆おだやかな顔をしてご馳走を食べている。天国では長いスプーンを自分の口に運ぶのではなく、相手の口へ運び、仲良くご馳走を分け合っていた。

実は、天国と地獄には違いがない。
ただ、地獄にいる人は自分のことばかり考えているため、まさに、地獄のような有様。
天国は互いに思い合い、たすけあっているからこそ、相手も自分も幸せになれるのだ。

***

天国の人々も地獄の人々も、最初は長いスプーンを渡されて戸惑ったと思うのです。
私が先生に「タン君をたすけてあげてね」と言われた時、具体的に何をしたら良いのか分からなかったように。

天国の人々は、長いスプーンで食事が摂れず困っている相手を見て、まず自分が相手にできることを考えたのではないでしょうか。食事が摂れず困っている相手を見て「たすけてあげたい」そう感じたからこそ、行動に移したのではないでしょうか。

たすけてもらった相手は、今度は自分が……と相互的な関係が生まれ、結果的に「たすけあい」となるのではないでしょうか。

そんな温かく優しい「たすけあい」の輪を、身近な家族、友達、地域へと広げていけたら、皆が幸せを感じられる世の中になるのかもしれませんね。

後日談

タン君は小学校卒業と同時に引っ越ししたのですが、20歳の時に開かれた同窓会で再会し、こんな話をしました。

「ベトナム人だというだけで、地域の行事にも誘われず、毛嫌いする人もいたんだよね。そんな時、阪神大震災があった。あの日の朝、家の扉が歪んでしまって外に出られなくなったんだ。大きな揺れに動揺して不安な時、外から(私の両親の)声が聞こえた。『大丈夫ですか?』って。なぜかその時、たすかった……って思えた。夜になると隣に住んでいたおばあちゃんが、家にあったパンを持ってきてくれた。日本人は温かい人ばかりだったのに、それを知ろうとしなかったし、自分から困っている人に声をかけることもしなかった。たすけてもらってばかりだったけど、あの家に住んでいた時のことは、楽しい思い出ばかりなんだよね。」(実際のタン君は少しチャラくなっていたため、話し方も軽めでしたが)

私「たすけてもらってばかりって言ってるけど、私はタン君にたすけてもらったよ」

タン君「??そんなことあったっけ?」

私「かくかくしかじか……」

タン君「全く覚えてないわ。それ、夢じゃね?」

私「しばくぞ」

おしまい