人に頼るのが苦手だった。

両親から「何をやってもいいけれども、他人に迷惑だけはかけるな」と言われて育ってきたからだ。だから社会に出て、起業をして、ものすごく困ったことがあっても、誰にも相談することができなかった。

その結果、自分一人では抱えきれないくらい問題を大きくしてしまい、かえって周りに迷惑をかけることになってしまった。そのことは今でも反省しており、この出来事を契機に、少しずつであるが意識して人に頼るようにしている。

私に限らず、日本人は「弱さ」を人に見せるのが苦手な人が多いと思う。それは、他人に迷惑をかけてはいけないという教えもさることながら、無意識レベルで「強いことがかっこよく、弱いことがかっこ悪い」という価値観が根強くあるからではないかと思う。
だけど、本当に「弱い」ことはかっこ悪いのだろうか。無理やりにでも「強さ」を演出しなければならないほど「弱い」ことは悪なのだろうか。

「弱い」とは、なにもひとりの人間に限った話ではない。私の現在の職場であるプロサッカークラブは、まさに「勝ち負け」や「順位」で評価をされる組織だ。当然強いクラブもあれば弱いクラブもある。

私が所属している栃木SCというクラブは、どちらかといえば弱い部類に属する。Jリーグの中でも二部に所属し、その中でも今年は全22クラブで下から三番目の20位という成績で、あわや三部に降格するところだった。決して強いとは言えない。

だけど、そんなクラブを毎試合応援に来てくれる人たちがいる。勝てない試合がなんど続いても「がんばれ」と励まし、支援してくれる人たちがいる。サッカーには独特な応援文化があり、こうして熱心に毎試合応援に来るファンは「サポーター」と呼ばれる。

若い頃は、こういったサポーターの存在が不思議だった。強いチームを応援していれば、もっとたくさん楽しい思いができるのに、なぜあえて弱いチームを応援するのだろう、と。地元のチームだから選択の余地なく応援しているのだろうか、と。

しかし、ひょんなことから自分自身がとあるサッカーチームのサポーターになり、強いときも弱いときも変わらず声援を送り続けることで、少しずつ考えが変わってきた。人は「たすける(サポートする)」ことが喜びになることもあるのだ。でなければ、何年も何十年も、負ける試合のほうが多いチームを応援しづつけるなんてできない。

「サポートする」ということは、「たすけあい」なのだと思う。一見すると、たすける側が一方的にパワーを与えているように見えるかもしれないが、実はたすけている側もパワーを受け取っている。誰かを「支えている」という自負が、自分の人生に彩りをもたらすこともある。

こんなふうに考えるようになってから、すべての人はありのままでいて良いのではないかと思うようになった。強い人も、弱い人も、子どもも、お年寄りも、病気の人も、障がいのある人も、無理に強さを装う必要はないのではないか。他人にたすけられることに、過度に申し訳なさを感じる必要もないのではないか。

ただ自分がそこに存在しているだけで良いのだと思える人を増やしていくこと。それを人は「愛」と呼ぶのだと思う。