「世話になったことを、忘れることが恥ずかしい」お節介な大阪人のたすけあい
私は36年間大阪に住んでいるのですが、『大阪最高! 関西最高!』と思う瞬間が多々あります。
他県の方から見ると、大阪の人はどのようなイメージでしょうか? 関西出身のお笑い芸人さんように、テンポが良く楽しいイメージでしょうか? 逆に、少しキツイ、怖いなどマイナスなイメージを持つ方もいるかも知れません。
大阪で生まれ育った私は、大阪の人はとても人情味があり、温かい言葉が多いと感じています。その人柄や言葉にたすけられることが多くありました。
今回は、大阪人の「たすけあい」について考えてみたいと思います。
大阪弁は「たすけあい」が起こりやすい言葉
困ったことに出くわして「たすけてほしい」と思ったとき、第三者に声をかけるのってなんだか気まずいし、躊躇してしまいませんか?
たすけてもらっている最中も「なんだか申し訳ないな……」という気持ちになってしまうこともあります。
逆にたすけたいと思っても、すぐに声をかけられなかった経験は誰もがあるのではないでしょうか?
しかし、大阪の人を観察してみると、たすけを求める側もたすける側も、明るくナチュラルに「たすけあい」が起こっているように感じます。
大阪弁には、「たすけを求めて良いのだろうか?」という不安を一瞬で払拭し、軽やかな気持ちにさせる言葉が多くあります。
「しゃーないな」
「教えたるわ」
「かまへん」
「ええよ」
「任せとき」
大阪弁独特のイントネーションや方言も相まって、気前の良い言葉たちが胃の中にスッと入り、充満していた不安は一瞬で消えてしまいます。
気前が良いとは『物惜しみしない』ということ。
思えば、2年前に亡くなった祖母はよく、「親切は減るもんじゃないからなぁ」と言っていました。祖母は商売人でしたが、もともと大阪は商人の街だったので、「お客様精神」が強い文化が残っており、相手に何かをしてあげる敷居が低いのかもしれません。
そんな祖母の口癖は「おおきにね」でした。
大阪人は「お節介」。だから「たすけあい」も起こりやすい
大阪に住んでいると「たすけを求めなくても、たすけてくれる人がいる」と感じることがあります。
例えば、2019年にM-1グランプリに輝いた『ミルクボーイ』のネタ「コーンフレーク」。
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駒場さん(ボケ)「うちのおかんがね、好きな朝ごはんがあるらしいんやけど、名前を忘れたらしいねん。いろいろ聞くんやけどな、全然わからへんねん」
内海さん(ツッコミ)「ほんだら俺がね、おかんの好きな朝ごはん一緒に考えてあげるから、どんな特徴言うてたかとか教えてみてよ」
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ボケの方(筋肉の人)は、「わからへんねん」としか言っていないにも関わらず、ツッコミの方(角刈り頭の人)は「一緒に考えてあげるから、特徴を教えて」と、他人のことに首を突っ込みます。
大阪の日常ではこういったやりとりが珍しくありません。
思えば中学生の頃。部活の試合で隣町の学校へ向かう途中、自転車がパンクしてしまった私は、みんなに先に行ってもらい、一人で自転車を押しながら会場へ向かったことがあります。
部のみんなに気をつかい、「大丈夫、大丈夫! もう会場近くだし、遅れちゃうといけないから、みんな先行ってて!」と。「私のことはいいから! みんな逃げてー!」みたいなテンションで言ったのですが、自分が方向音痴なことを忘れていたため、迷子になってしまいました。
迷子になっているくせにプライドが邪魔をして「自分この道、完全にインプットしてますから。あとはアウトプットするだけっすね!(カメラ目線)」みたいな顔で、堂々たる歩みを進めていました。どこ歩いてんのか自分でもサッパリわかっていないのに。
しかしそんな時間が長く続くわけもなく。
「分かってくれとは言わないが、そんなに私が悪いのか!」とチェッカーズのように尖りながらも、ちっちゃな頃から悪ガキでもなければ、15歳で不良と呼ばれたこともない。どちらかといえば模範的中学生だった私は、知らない街で迷子になったことが不安で情けなくて、泣きながら歩いていました。
すると、前から歩いてきたおばちゃんが道案内をしてくれたのですが……。
おばちゃん「この道をダーっとまっすぐ行ったらコンビニあるから、そこをシュッと曲がって、そこから〜〜…やねんけど、自分、一人で行けそうか?」
私「(道案内がややこしすぎて、途中から思考停止状態で白目)む、無理かも……」
おばちゃん「ちょっと待っときや!(中学校方面へ歩いて行くおじさんを捕まえて)あっち方面行くんか?この子〇〇中学に行きたいらしんやけど、途中まで一緒に行ったってや!」
おばちゃんは第三者(おじさん)に私を託したにも関わらず、「中学生の女の子やからな、おっちゃんに付いて行かせるんはやっぱり不安やから、おばちゃんも付いて行くわ」と失礼極まりない発言の後、結局3人で目的地へ向かうことになりました。
傍から見ると、もう家族です。愛されて育った一人娘にしか見えない。全然知らない人なのに。
大阪の人みんながそうかと聞かれると困ってしまいますが、このおばさんやおじさんのように、「お節介」で「他人のことにすぐ首をつっこむ」大阪人は少なくありません。そして、このお節介なところが「たすけあい」の敷居を低くしているのかもしれません。
「世話になったことを忘れることが恥ずかしい」たすけあいは義理人情から生まれる
2018年6月18日に起きた大阪北部地震では、地震直後に「風呂に水溜めとかなあかんで!」と家に来てくれる人や、「水は大事やで!」と、ペットボトルを抱えて持ってきてくれるおばちゃんがいました。
「我が家にも水はあるから、おばちゃん自分で持っといて!」と言ったのですが、「水なんていくらあっても困らへんから!遠慮せんでいいから、もろといて(貰っておいて)」と。
さらに、我が家の隣には一人暮らしのおじいさんが住んでいるのですが、地震がおさまってすぐに「おい! 生きとるか?」と、玄関を叩きに来てくれました。
数日経って落ち着いた頃、近所の方に改めてお礼をしに行ったのですが、こんなことを言われました。
「水臭いこと言わんでいいの! 阪神大震災のときは、あんたのお母さんやお父さんに世話なったんやから。あんたも小学生やったけど、軍手はめて部屋の片付け手伝いに来てくれてたやん。世話になったことは忘れてないんやからね」と。
この記事を書くにあたり、そんなことを思い出していたら、母のことをふと思い出しました。
母は車に乗っているとき、知り合いのおばあちゃんやおじいちゃんを見かけると必ず「どこ行くん? 病院か? ついでやから送ったげるから乗りやぁ!」と声をかけます。
母は小さい頃、父親が働かず、家や食べ物がなかった経験があります。住む場所を転々とし行き着いた場所が、私も住んでいる大阪の北摂にある土地でした。
小さい頃は、ご近所さんにとてもお世話になったと言います。
あの頃の温かさをちゃんと覚えているから、次は自分ができることをしているだけなのだと。
『世話になることは恥ずかしいことではない。ただ、世話になったことを忘れることは恥ずかしい』
小さい頃から、当たり前のように聞かされてきた言葉です。
「世話になったことを忘れずに生きる」からこそ「多くの人にたすけられて今、生きている」と実感し、その温かさを「たすけあい」という形に変えて行動できるのかもしれません。
大阪には、物惜しみしない気前の良い言葉や、ちょっとお節介で他人のことにすぐ首を突っ込む人がいます。
そんな大阪イズムを日常に少し取り入れることや、『世話になることは恥ずかしいことではない。ただ、世話になったことを忘れることは恥ずかしい』という言葉を心のどこかに置くことで、たすけあいの敷居が低くなるかもしれません。
もちろん大阪人みんながみんな気前良く、お節介なわけではありませんが、そういう言葉や人たちに救われている人がいたりいなかったり、最後、真面目に記事をまとめると「で、オチは?」と聞かれたり。
大阪人て、なんなんでしょうね。
知らんけど。
おしまい。
(イラスト:シムシム 編集:はつこ)