以前、駅で外国人の方に「切符売り場はどこですか?」と聞かれたことがあります。そこで私は、切符売り場の方を指差して「あっちですよ」と教えてあげたのですが、その話を友人にすると、「めっちゃ感じの悪い日本人だと思われてるよ」と指摘されました。

どうやら、「Go away!(あっち行け!)」と。

「あっちですよ」ではなく「あっち行け」と、言っていたようなんですね。自分で言うのもなんですが、嫌な日本人だと思われても仕方ないと思います。

自分ではたすけたつもりが、そうではなかったという事実がモヤモヤ……心に引っかかっていました。
このような経験、皆さんも少なからずあるのではないでしょうか?

そこで今回は、『人をたすけるために必要なこと』について考えながら、心のしこりを取り払っていけたらと思います。

人をたすけるために必要な『選択肢』とは

例えば、世界には困っている人がたくさんいます。お腹を空かせた子ども達を「たすけたい!」と思ったとき、「食べ物を与えること」は最善でしょうか?もちろん、そこには優しさがあり、思いやりの心があります。

しかし長期的な目で見ると、それは一瞬の「てだすけ」ともみて取れます。

どのようにたすけるのが、その人にとって一番良いのかを考えると、「植物の種を渡し、育て方を教える」ということも選択肢の一つとしてあげられます。

その選択肢を見つけ出せる人間になるには、勉強が必要です。貧しい国について知るには社会の勉強が必要ですし、植物の種を渡して畑を作るという手段は、日本の歴史を知っているからこそたどり着く選択肢でもあります。そして、植物の育て方を知るには理科の勉強も必要となります。

「人をたすける」には、優しさや思いやり、心の余裕など内面的なものがあることは大前提ですが、その優しさや思いやりをキチンと形にするためには、

1:相手が何に困っているのかに気づくこと(課題発見)
2:どのようにたすけるのが、相手にとって一番良いのか考えること(課題解決)
3:自分にできることは何か考えて動き出すこと(行動)

が大切で、そのためには中学校の5教科(国語・算数・社会・理科・英語)で習う知識はもちろん、道徳や体育、家庭科、音楽などの勉強も必要となるときがあります。

勉強といえば「知識を得るため」「良い大学に入るため」「将来のため」と自分のためにするものだと思いがちですが、誰かのために学び、誰かをたすけるために学ぶものでもあるのではないでしょうか。

事実を見極めた『戦場の天使』ナイチンゲール

歴史漫画の常連である「ナイチンゲール」。
ナイチンゲールと聞いて、どのようなイメージを持ちますか?

『ただひたすら、戦場の兵士達の看護に尽くした素晴らしい女性』というイメージを持つ人が多いのではないでしょうか?
もちろん間違ってはいないのですが、彼女の素晴らしさはそれだけではありません。ナイチンゲールは数学・統計学という学びによって医療現場の認識を変え、看護の現場を離れたあとも多くの人たちを救った女性なのです。

戦場といえば、毎日銃撃や砲弾で死者が出るというイメージを持ちますよね。

ナイチンゲールも、戦場で戦死していく兵士達を目の当たりにします。しかし数多くの死を見届ける中で、戦死していく兵士達は銃撃や砲弾による傷が原因で亡くなる人ばかりではないことに気づきます。

多くの戦士達の死因は感染症であり、不衛生で劣悪な環境が問題であると考えたナイチンゲールは、自ら掃除をしたり、日用品の買い付けを行ったりと環境の改善にも尽力しました。その結果、みるみると死者の数が減っていったのです。

戦争終結後、ナイチンゲールは看護の道に進む前に学んできた、数学・統計学を駆使し、戦場で亡くなった兵士の死因を「負傷」「感染症」「その他」と分類し集計していきます。

その結果、負傷を原因とする死者の30倍以上もの兵士が、劣悪な環境が引き起こす感染症によって亡くなっていたのです。さらにナイチンゲールは、棒グラフや円グラフがまだ普及していなかった時代に、死因別の死者数を一目で分かるよう独自のグラフを用いた調査書を作成しました。

他にも、兵士の年齢別死亡率を比較したり、当時不健康な街とされていたマンチェスター市の死亡率と比較することで、いかに病院の改善が必要なのかという客観的な事実を突きつけたのです。

それにより、衛生管理の重要性が知れ渡り、その後も多くの戦場の兵士達や不衛生な環境で暮らす人を救い、一般の病院や家庭の感染症予防にも大きく貢献していくことになりました。

彼女は善良な看護師としてだけでなく、「どのようにたすけるのが、相手にとって一番良いのか」を、統計学・数学の学びから、自分にできることは何か考え、動き出したのです。

もしも、彼女が善良なだけの看護師だったら……
環境を整えることで多くの人を「たすける」という選択肢には至らなかったかもしれません。

仮に、死因が劣悪な環境によるものだと気づいたとしても、それを裏付けるデータを作成できる素養がなければ……
事実を伝えられず多くの人を、たすけられなかったかも知れません。

『どのようにたすけるのが、相手にとって一番良いのか』を知るために

駅で出会った外国人の方に上手く対応できなかった私は、「たすけたい」という気持ちがありながらも、英語の知識が浅すぎたため、その気持ちを形にすることができませんでした。

クドイようですが、「あっち行け!」とか、一周回ってもうネタ……面白い話にすら思います。(反省しろ)

相手をたすけたいのに、たすけられない。

そういった不甲斐なさを感じたとき、それがなぜなのかを考えてみると、学びによって解決できることが多いと気づきます。

知識を蓄えること、学ぶことは経験を積むことであり、その経験や知識は他者に還元することができます。
そういった流れの中で人間は、たすけたり、たすけられたりしながら「たすけあい」を学んでいくのかも知れませんね。