2008年の冬。突然のことだった。
母は一生、歩くことができなくなった。
大動脈解離という、重い病気の後遺症だった。

父は急性の心筋梗塞で、早くに亡くなっていた。
家族は、母と、私と、知的障がいのある弟との3人。
波乱万丈の生活の中で、母はいつも、太陽みたいに笑っていた。

そんな母から、笑顔が消えていった。
正確には、無理して笑ってはいるけれど、泣いている時間が増えた。
「歩けないなら、死んだほうがマシだった」と、母は震える声で言った。

私は、母の笑顔を取り戻すために、必死だった。
歩けないことの絶望に勝る希望なんて、そうそう見つかりはしないと思っていた。
それでも、諦めきれなかった。

いつか母が「また家族で、沖縄へ行きたい」と呟いたことを思い出す。
沖縄は父が生きていた頃、家族でよく訪れた場所だった。

「わかった。退院したら、沖縄へ行こう」

私は、約束した。

後から知ったことだが、母は「まさか本気だとは」と、信じていなかったらしい。

不安を打ち消してくれた、店員さんの機転

2011年。
母の長い入院生活が、ようやく終わろうとしていた夏。
とある大手旅行代理店へ、私はおそるおそる足を踏み入れた。

本当はお店に行きたくなかった。

知らない人と話すことは、たとえ店員さんであっても、苦手だ。
当時は「母が車いすに乗っていまして……」と誰かに説明するのが、どうにも気乗りしなかった。
母のことが、恥ずかしかったり、申し訳なかったりしたわけではない。
「ああ、こちらでは車いすの人はちょっと、すみません」などと、相手に気まずそうな顔をされたらどうしよう、と想像すると、なんだか恐ろしかった。

だからインターネットで検索して、旅行の予約を手早く済ませようと思った。
しかし、その頃は今ほど旅行のバリアフリーが意識されておらず、表示された旅行プランはどれも、車いすで泊まれるホテルなのかがわからなかった。

「介護つき旅行」もあったが、手厚い介護が必ずつくプランのみ。
私と母にとっては大げさな対応だったし、大学生になったばかりの私のバイト代では、手が届かない金額だった。

私と母が、沖縄を楽しめる旅行プランは、検索では見つからなかった。
落胆しながらも、すがる思いで、私は旅行代理店の店員さんを頼ったのだった。

カウンター越しに、店員さんと対面する。私は緊張していた。

「いらっしゃいませ。どちらへのご旅行をお考えですか?」
「沖縄に行きたくて」
「何月ごろをご希望でしょうか?」
「10月くらいです」
「わかりました。何名様でのご参加ですか?」
「2人です。私と、母の」

私の返答を聞きながら、店員さんが慣れた手つきで、PCのキーボードを叩く。

「お母様とご旅行ですか!素敵ですね」

店員さんが笑った。
この笑顔が消えるんじゃないかと思うと怖かったが、伝えるしかなかった。

「えっと、あの、母は車いすに乗ってて。すみません」

とっさに出た言葉は、なぜか、すみませんだった。

店員さんがせっかくPCで調べてくれたプランはきっと、どれも私たちには当てはまらないだろう、と思ったからだ。

店員さんはきょとんとした顔をして、そして、また笑った。

「わかりました!では、車いすで泊まれるお部屋のあるホテルをいくつか調べますね」

今度は私が、きょとんとする番だった。
驚いた。あまりにも、あっさりした対応だったからだ。

というか、車いすで泊まれる客室があるなんて、知らなかった。

その部屋は「バリアフリールーム」と名前がついていて、観光客が多い沖縄のホテルでは、めずらしくない客室だということも、そのとき初めて知った。

「ここだけは絶対に行きたい、という場所はありますか?」

私は言葉に詰まった。
とにかく沖縄へ行く、ということしか決めていなかったからだ。

「うーん、すみません、あんまり考えてなくて……」
「美ら海水族館はどうでしょうか?車いすやベビーカーで観光しやすいし、人気ですよ!」

美ら海水族館。
なんて素敵な響きだろう、と大真面目に思った。
「いいですねぇ!」と、私は間髪入れずに答えていた。

店員さんは、美ら海水族館に近い、リゾートホテルを提案してくれた。
海が見えるバルコニー付のコテージで、車いすのまま浴室にも入れると言う。
あれだけ検索しても私は見つけられなかったのに、びっくりした。

「レンタカー付のプランですが、ホテルの直通バスに変更されますか?」

店員さんから尋ねられて、ハッとした。
私は自動車の運転免許を持っていなかった。もちろん、母も運転できない。

「バスって、車いすのまま乗れますか?」
「普通のリムジンバスですから、どうしても階段はありますね」
「そうですよね……」

私がどうしようかと悩んでいると、店員さんは「ちょっとお待ちください」と断って、どこかへ電話をかけ始めた。

数分のやり取りがあった後、店員さんはパッと笑って、私に言った。

「レンタカーを、タクシーでの送迎に変更できました!」

「えっ」
「2日目以降もチャーターできるようなので、そのまま観光を楽しんじゃってください」

楽しんじゃってください、という飛び跳ねるような言葉に、なんだか一気に店員さんとの距離が縮まった。

「飛行機も、車いすから移りやすい席が良いですよね。調べますね!」

店員さんの機転のおかげで、母と私は、無事に沖縄へと飛び立つことができた。
母は空港に着くまで、「本当に沖縄に行けるの?本当に?」と半信半疑だった。

なんくるないさー、タクシーの運転手さん

あれよあれよという間に、母と私は那覇空港の到着ゲートをくぐった。

探していたその人は、すぐにわかった。
「岸田さん」と書かれたプレートを持ったおじいさんが、手を振っていた。

彼が「とうめタクシー」の運転手・とうめさんだ。
とうめさんに案内されたタクシーに、母が乗り込む。

うまく乗れるかなあ、とドキドキしていたら。
とうめさんは「ゆっくりいきましょうね〜」と、独特のイントネーションで声をかけてくれた。
ホッとする母の隣で、私は「具志堅用高の喋りと同じイントネーションだ……」と心から感動していた。

ホテルまでの2時間。
とうめさんは、たくさん、沖縄の話をしてくれた。

とうめさんが「あそこは行かなきゃ損さ〜」と言うので、「ぜひ!」と返事したら、本当に連れて行ってくれた。

「寄り道しちゃダメなんだけど、旅行会社には内緒ね〜」と言い、
車いすに乗ったまま、波打ち際を見られる場所で降ろしてくれた。
地元の人じゃないとわからないような、名前もない砂浜だった。

空と海が溶けて一緒になったように見える絶景を、古宇利大橋から眺めた。
母が「歩けなくなっても、来れた……」と言うのを聞いて、泣きそうになった。

さすがにグラスボート(船底がガラスになっていて、魚が見える)は乗れないだろうと思っていたら、とうめさんは「たぶん大丈夫よ〜」と呑気に言った。

グラスボート乗り場に行ってみると、屈強そうなお兄さんが数人出てきて、
あっという間に母の車いすを担いで、船に乗せてくれた。

本当に大丈夫だった。

沖縄には「ゆいまーる」という、たすけあいの精神があるらしい。
滞在中、段差や階段に何度も出くわしたけど、必ず誰かがたすけてくれた。
母が諦めていた「できない」「行けない」が、「できる」「行ける」へと、オセロのようにひっくり返っていった。

滞在最終日。
いろんなところへ私たちを連れて行ってくれたとうめさんにお礼を言うと、彼ははにかんで「また来たらいいさ〜」と言った。

沖縄旅行を境に、母は前を向いて生きるようになった。

あれから8年近くが経ち、私たちは毎年、沖縄を訪れている。

「できないことなんてない」と気づいた母は、なんと手動運転装置を使って、両手だけで車を運転する免許を取り、今では沖縄でレンタカーを乗り回している。

頼りなく細かった腕は、まるでゴリラのような力を発揮し、自分で車いすを持ち上げて、後部座席へ放り込むまでに成長した。
沖縄へ行きたいという願いの威力は、すごい。母をもゴリラにする。

あのとき、たすけてくれた旅行代理店の店員さんの名前は、残念ながらどこにも残っていない。
タクシー運転手のとうめさんは、「とうめタクシー 沖縄」で検索しても、なんの情報も出てこない。

今、二人にお礼を伝えに行くことはできないけれど。
それでもせめて、このお話が、届きますように。
最大級のお礼に代えて。