#今できるたすけあい
コラム

病気の子どもをもったとき、つながることはたすけあうこと。

※この記事は2020年5月31日に執筆したものです。

私には子どもが3人いる。

11歳の息子、8歳の娘、2歳の娘。

自分が3人きょうだいだったから、やっぱり子どもは3人いたらいいな。そんな漠然とした希望で、幸運にも恵まれた3人の子どもたち。

末っ子を望んで妊娠したとき、私は39歳。年齢的に多少の杞憂はあるけれど、上の2人が大きな問題なく生まれてきたことを考えれば、何とか元気に生まれてきてくれるだろう。ごく能天気にそう思っていたら。

その子は先天性の心臓疾患だった。

それも重度の。

「最低でも3度の手術に挑み勝つことが長期生存への必須条件です」

診断してくれた新生児科医と産婦人科医の双方がそう言った。

カンファレンスルームで先生方が書き出してくれたいくつもの心臓とその周囲の血管の奇形を示した難解な疾患名を前に。

私の心は既に負けていた。

諸手を挙げて幸せだと言い切れない妊娠をして出産をするとき、人はだれにその悲嘆と不安を話せば良いのだろう。

人間、不惑も近くなると、相手が返す言葉に詰まるような話題を世間話として振るようなことはそうそうできなくなる。

ましてや体内の子は生きるのか死ぬのか、明日は、数週間後は、皆目わからない未知の疾患児。

まずはお天気の話が定石の世間話としては暗すぎる。

私はだんだんと膨らんでくるおなかを、周囲の知人や友人には

「少し心臓に心配があるらしいんやけど、週数相当に大きいし割と元気みたい」

それらしいことを云って取り繕いながら、内心は悲嘆に暮れていた。

もし生きて産まれてこなかったら

たとえ生きて産まれてきたとしても。

泣き出したいような気持ちで、そのころまだ幼稚園の年長児だった上の娘を、幼稚園のバス停まで送り迎えすることが日課だった。

こんなに嬉しくない妊娠は初めてで、それを実感してしまっている自分が哀しかった。

我が子の、胎児の成長といずれ訪れる出生を喜べない狭量な母親。

酷いおかあさん。

そのころから私は、ほとんど毎日SNSに短い文章で子どものことや日々のことを綴っていた。末っ子についても妊娠がわかって少ししたときに、

「3人目の子がおなかにできました、生まれるのは冬です」

と伝えていたので、この個人的超未曽有のできごとも同じように、スマホの画面の向こう側の人たちに伝えた。

100文字程度の短い言葉で。

「おなかの子に心臓疾患がみつかりました、もう我が家の育児の座右の銘は名実ともに『とりあえず生きていれば良し』です」

不思議なもので、実生活の中で顔を合わせている知人や友人よりも、私の個人的な姿形や氏素性を知らないインターネットの向こう側の人たちの方が、この手の深刻な話を持ち出しやすいような気がしている、私だけだろうか。

それでも、報告の文言は極力暗い言い回しにならないようにした。

だって私の胸中に渦巻いていた哀しくて暗いカタストロフの片鱗なんて、一体だれが見たいだろう。

するとすぐにいくつかの返信があった。

それは普段からよくちょっとしたやり取りをしている人たちと、そして

「ウチの子も心臓疾患です。ご心配でしょうが、無事生まれてきますように」

「治療と手術の過程はきっとウチの子と同じです。今は驚くことばかりでしょうが一緒に頑張りましょうね」

「ウチも同じ疾患です。手術を経て今10歳なりました、きっと育ちます」

この胎児と同じ、もしくはよく似た先天性心臓疾患の子どもを持っているママとパパたちが、結構な数やってきては、かわるがわる励ましの言葉を綴ってくれる。

私は驚いた。

見ず知らずの人たちが心から激励してくれることと、何より、己の強がりがまるっと見透かされていることに。

この人たちは、おなかの子の疾患に内心嗚咽しながら文字を打っていた私を、その100文字程の短い文章の中にはっきりと見破って、そっと背中を支えに来てくれたのだ。

『あなたのつらい気持ち、凄くわかるよ』

『あなたの気持ちだけでもたすけにきたよ』

あの日、見ず知らずのママとパパたちが、どうしてあんなに私の内心を見透かして、心からの励ましの言葉を送ってくれたのか。

このときおなかにいた子を無事に産み、2度の手術を経て治療の道半ばの今ならよくわかる。

そのからくりはとても簡単なことだ。

だってみんな、同じ道を辿ってきているのだから。

世界が反転してしまった妊娠期。

生きて産まれてきてさえくれたらと祈った分娩台の上。

たくさんの管と線に絡まるようにつながれて我が子に触ることもできなかったNICU時代。

そして10時間を超える時間をただ待つことしかできなかった手術の日。

特に手術の日なんて、朝9時ごろに我が子を手術室に見送って、その後は夫婦そろって長椅子のずらっと並ぶ手術待合室で、同じように家族の手術の終了を待つ人たちと、ひたすら手術室の扉が開き執刀医が名前を呼んでくれるその瞬間を待つのだけれど。

各種手術の中でも最高難度と呼び名の高い小児の心臓疾患の手術。

小さな小さな胸にメスを入れて、場合によっては人工心肺に心臓の機能を預け繊細な術式を細心の注意の中で実施されるその手術は、

めっぽう時間がかかる。

これまでの平均は約11時間。

とにかく長い。

長すぎて不安も杞憂も悲嘆も何もかもすべての感情が長持ちしない。待つだけしかできない親は、もう何をどうしていいかわからなくなるのだ。1度目の手術のときなんて、何を思ったのか夫が

「俺、何か買ってくるから」

と言って病院の外に出て買ってきた

『食パン2斤』

をもりもり食べた。この時間は平常心を保つことが本当に難しい。ウチの子はどうしているのか、本当に大丈夫なのか、先生はどの辺の血管を切って繋いでいるのかなあ。

あのときもそうだ。

SNSを通じて「今日これから手術です」とひとこと告げると、

「頑張って!」

「無事に終わりますように」

「手術の時間超過は普通にあることですから落ち着いて」

「長い一日ですからご飯ちゃんと食べてくださいね!」

ハイ、食べていますなぜか今、食パンを。

あの長い長い一日をスマホの向こう側の人たちに励まされた。人によっては自身のお子さんの治療の道の途中で、入院中だったり、自宅でお子さんの医療的ケアが時間毎にあって繁忙極める最中。

見たこともない私の娘の手術の、始まりから終わりまでを一緒に待っていてくれた。

その声を後押しに、2回の手術に娘は勝ち続けている。

只今絶賛連勝中。

今、娘は2歳ともうすぐ半年になる。ちょうど娘を産む前後に知り合った、娘と同じ年ごろの先天疾患を持つお友達は、みんな手術の予定と予定の間を走り続けている。娘と同じ手術をゴールに設定している子たちは既にゴールテープ切って予定をすべて完走した子も多い。

先天性の心臓疾患児は最後の手術を2歳前後に実施、そこを目標にすることが多いために今がピークだ。娘はちょっと肺と血管の状態のせいで少し進みが遅いのだけれど。

この春から長く世界に蔓延するウイルスの影響で、一体みんなの手術は無事に実施されるのか、予定が延期にならないのかと心配していたが、そこは各主治医と執刀医と何よりご両親の底力。みんな予定の日に我が子を手術室に送り出している。

そんな手術のその日その時。私はたとえいたずらざかりの娘が、

宿題のプリントをかじって姉を泣かせていようと、

縦笛をベランダに放り投げて兄の怒りを買っていようと、

冷蔵庫から勝手に野菜ジュースを出して床に撒いていようと、

ついスマホに釘付けになり、励ましの言葉をあたまの中に探して逡巡する。

送信先の大体はあのときの私に励ましをくれた人たちだ。

先天疾患とわかった胎児と私のために、それを我がごととして激励をくれた人たち。

「頑張って。遠い場所からですが、祈っています」

心臓の手術は、割と出たとこ勝負なところがある。必勝を望んで手術台に我が子を送り出すのだけれど、結果が伴わないこともない訳ではない。

とても哀しいけれど。

だから一生懸命言葉を選ぶ。あの日、私をたすけに来てくれたみんなも、安直なことも無責任なことも言えない中で、私に寄り添うことを一番に考えた言葉を送ってくれたのだから。

そして無事に手術室から出てきたその後は

「あとは尿!尿が出てきてくれさえしたら!」

尿、尿を連呼する。一見するとただの変な人になってしまうけれど、心臓の手術は、無事に手術室を出て術後管理のICUに入りその後24時間がまず第一の通過点。

そこで人工呼吸器を抜管し、

心臓の、新しい血行動態が動きだし、

尿が出たらまずは一つの大きな山を越えられたことになる。

だからつい尿!尿!と連呼してしまって、何も知らない人から見たら相当奇異な人間に映っていること必須だけれど、私は真剣で必死だ。

娘のように、いのちの瀬戸際を歩かなくてはいけない難病児というのは数万人にひとりという確率で生まれてくる、割と稀有な存在だ。

「隣のおうちのお子さんもそうなんですって」「お友達の子も同じよ」などということはあまり起こらない。

それだけに、その子を育て、治療し、手術に立ち会うそのときの心情を、同じ境遇にある隣の誰かと分かちあうのはとても難しい。

だから、私たちは、会ったこともないスマホの向こう側に、同じ疾患のもしくは類似疾患の子を見つけると、つい声をかけに行ってしまう。

「妊娠中の子が心臓の疾患のようでどうしたらいいのか」

「生まれました、今NICUです」

「明日手術になります、これが無事終われば連れて帰れるはず」

「ICUを抜けました、今回は勝ちです」

そのとき、私はあの日私を支えようとしてくれた人と同じように声を懸けに行く。

あのときどうしようもなく不安だった、そして悲嘆の底にいた自分をたすけに行くような気持ちで。

そうやって、私たちは互いの距離と距離を超えて、

それぞれの場所から

手をつなぐ。

お互いをたすけあうために。

(写真:きなこ 編集:はつこ)

きなこ

野生の一人文芸部。11歳ADHD男児、8歳女児、2歳単心室症他心臓疾患児女児(絶賛在宅酸素中)の母。X(旧Twitter)→@3h4m1

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