#今できるたすけあい
コラム
マスクを“無意味”に作り続ける母と「カレーパンマンの復活」
※この記事は2020年6月9日に執筆したものです。
はじめまして。京都のお寺でお坊さん(副住職)をしながら、煩悩クリエイターという肩書きでいろんなコンテンツを企画している稲田ズイキです。
これまで野菜のグラビアを撮影したり、実家のお寺で寺主制作のお寺ミュージカル映画『DOPE寺/テ・ラ・ランド』を企画したり、寺を家出(≠出家)してSNSで泊めてくれる家を探す修行連載をしたりしてきました。今はコンテナをお寺にするプロデュースをしたり、『フリースタイルな僧侶たち』というフリーマガジンを編集したりしています。
今回はとっても個人的な話なのですが、うちの実家(寺)で起きた、母と僕のとあるエピソードについて書きます。
マスクを“無意味”に作り続ける母
コロナ禍で我が家に奇妙なルーティンができた。毎日自室にこもってテレワークしていると、大型犬みたいにドタドタと廊下を走る音が聞こえてくる。僕は今日も“あれ”が来たかと、仕事を一時中断して備えるのだ。
バンッと部屋のフスマが開くと、そこにはマスクをつけた母親の姿。口元は見えないが、満面の笑みを浮かべているのがわかる。「どう?」と言わんばかりに、仁王立ちを決め込む母。それを見て「ええやん今回の可愛いやん。でもカレーパンマンやな」とコメントする僕。すると、母は満足気な顔をして、またドタドタと走り去っていくのだ。
意味がわからないと思うので、何が起きているのか最初から説明すると、洋裁が得意な母は、マスクを縫うのが趣味になった。ただ、そのハマり方が少し度を行き過ぎていて、
「余ってる布があんねん」
「工事現場のお兄さんに褒められてん」
「将来マスク屋すんねん」
と、次々とモチベーションをエスカレーションさせて、ほぼ毎日マスクを作り続けているのだ。その生地のバリエーションは花柄だったり、どこの豪族の家紋やねんって柄だったり、もはや医療用品の域を超えた、アートのような心持ちにさせてくれるのが、母のマスクの特徴だ。
ただ、そのお手製のマスクには惜しいところがある。おそらく横幅のサイズがおかしいのか、どれもマスクの端が顔をはみ出してしまって、着用した顔のフォルムがカレーパンマンそっくりになるのだ。もはやカレーパンマン変装用マスク。
毎日ドタドタ音とともに現れるカレーパンマン。僕が求められているのは、できたてのマスクのカレーパンマン度合いと、柄の可愛さを査定することだ。「その柄かわいいけど、今日もカレーパンマンやん」と言うと、母は「なんでカレーパンマンになるんやろ」と言って、また新しいカレーパンマンの顔を焼き始める。
これが我が家の58歳と28歳の間にできた、奇跡みたいなルーティンだった。
「カレーパンマンの復活」
ある日、そんなジャムおばさんと化した母に対して、父(住職)はこう言った。
「布マスクばっかり作ってるけど、布マスクって完全なウイルス対策にはならんらしいから意味ないで」
「あっ、言っちまったな」と思った。たしかに布マスクは飛沫を防いだり、喉を潤したりする効果はあるが、ウイルスの侵入を防ぐ効果は低いとされている。やばい、やばいぞ。母は「そっか」と言ったきり、わかりやすく肩を落としていた。
そんな父はというと「これが一番いいねん」と言いながら、真っ黒なサージカルマスクをつけて真っ赤な顔をして庭を掃除していた。効果はあるだろうけど、すごく暑そうだった。こやつら、なんて極端な夫婦なのだろうか。
それ以来、布マスクに関していろんな報道もあって、母と僕のルーティンは自粛期間に入った。タンスにしまわれたカレーパンマンたちは冷え切っており、二度揚げしてほしそうに母を見つめている。そんな母の姿に、自分が高校時代、4つ上の兄に言われた言葉を思い出した。
「意味ないことすんな。お前は将来ミュージシャンになるわけちゃうやろ」
音楽にハマり、受験勉強そっちのけでギターを弾いていた僕に向かって、兄はそう言ったのだ。「ば、馬鹿野郎、趣味って大事なんやぞ」と、かすかなジャブは返したものの、どこかで聞いただけの借り物の言葉では、超絶理系の効率主義者だった兄の心にはヒットしなかった。こいつら、なんて極端な兄弟なんだろう。
でも、今ならば胸を張って言える。「無意味だとしてもそのギターを弾き続ける」と。
部屋には今も、当時使っていたアコースティックギターを置いている。ミュージシャンになったわけでもないし、YouTubeにアップするほどの腕前でもない。むしろ、僕は実家の寺を継ぐためにお坊さんとなり、ギターよりも木魚が似合う人生を歩んでいる。
それでも、当時の自分に何か一つ声をかけられるならば、「ギターを止めるな」と言うだろう。それは兄に伝えそこねた「趣味が大事」という言葉だけでは片付けられない。ギターが部屋にあることの豊かさを、彼女(ギター)と過ごしたその後の10年で知ったからだ。
ギターは別に弾くだけがすべてではないのだ。部屋でくしゃみをすると、アコギの腹の空洞に振動が伝わって、ブワァァンと音が鳴って「Bless you(英語圏でくしゃみをした人にかける言葉)」と言われた気持ちになるし、毎日アコギを視界に入れることで、あいみょんの魂を憑依(したような気持ちになることも)できる。
意味は他者に見出されるものでも、奪われるものでもないし、他者のためにわかりやすく言語化しなければいけないものでもない。ギターが下手でも、たとえ弾かなくたっても、ギターを持つ意味がないことなんてない。それが彼女に教えてもらったことだ。
彼女はたまに独りでに、ブワァァンと弦を震わせて言うのだ。意味のないものなど、この世にはない。1には常に∞の意味があり続ける。そう、無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ そうさ愛しい 想いも負けそうになるけど(以下略)! 無意味だと思っているものでも、必ず意味はあるのだと。
この世で一番恐ろしい言葉は「意味がない」という言葉だ。「しね」と言われるより「なんで生きてるの?」と言われる方が悲しいのと同じ。存在そのものの否定だけではなく、本来一つではないはずの意味を一つだと錯覚させて根こそぎ奪ってしまう。決して声に出してはならないその言葉、言語界のヴォルデモートである。
だから、母よ、マスクを止めるな。カレーパンマンを焼き続けるんだ。意味に負けてはいけない。“無意味”を生産しつづけるのだ。もちろんウイルスにはかからないように細心の注意は払おう。僕はあんたに無意味に長生きし続けてほしいのだ。また一緒に馬鹿やろうぜ!On My LOVE……
と、いった内容を伝えようとしたときだった。ドタドタと廊下を駆ける足音が聞こえてきた。この大型犬のような跳ねた足取り、もしや……
バンッと戸を開ける音ともに仁王立ちの存在。母だ。母が目の前に現れた。あまりに突然のことで僕は「なんで?」と無意識にヴォルデモートをやってしまう。意味を問われた母はこう答えた。
「私は作りたいから作んねん」
自分が言うまでもないことだった。人生とは不要不急の連続である。そして、遺伝子は以心伝心。母はマスク越しだったが、満面の笑みなのが分かった。もちろん、形はカレーパンマンだ。幾晩も寝かしたカレーパンマンはいつもより顔がデカいように感じた。査定を、査定をしなければ……
「今日もカレーパンマンやんけ!」
僕の目には涙のようなものが浮かんでいたような気もするが、浮かんでいなかったような気もする。そんなことはどうでもいい。今日はカレーパンマンが復活したのだ。母は満足気な顔をして、またドタドタと廊下を走り去っていった。
ギィーンガシャガシャ ダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッダッ
今日も我が家には、ミシン音が無意味にこだまし続けている。「なんでカレーパンマンになるんやろ〜」そんな母の間の抜けた声が味気のないテレワークに花を添えてくれるのだ。
カレーパンマンはいつまで焼かれ続けるのだろう。仁王立ちの母を見る度に「おいおい、母、あんた最高か?」と言葉にならない思いが込み上げては、真面目に査定にいそしむ日々を送っている。今日の焼き上がりも、やんごとなきカレーパンマンであった。
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息も詰まりそうなこのコロナとの長期戦。梅雨を迎えようとする今できるたすけあいとは、自分自身に意味を求めすぎないこと、そして、他人の意味を奪いすぎないことなのではないでしょうか。人間はいつでも自分の都合の良い見方ばかりをして、あらゆるものを既存の“意味”に当てはめていこうとする生き物です。仏教では、意味や言葉、概念といったものを苦しみが生まれる原因だと捉え、そういった媒介物を通した認識からは「本質」を捉えることができない(不立文字)と説きます。では、その本質とは何かというと、すべてが「空」だと説くのです。あらゆるものは条件や環境のもと刻々と姿を変え続ける実体のない存在。だからこそ、ギターもマスクも無限の捉え方が可能であり、その分だけ無限の意味もあるはず。0か1か、赤か白か、そんな限られた意味にとらわれがちな昨今。1と0の間、赤と白のグラデーション、つまり既存の意味のない新しい意味(それは無意味と言えるものかもしれません)を見つけていくことが、フィルターがかかったこの世界で、めいっぱい深呼吸することのできる姿勢になるのではないかと思います。私は最近、修行として無意味に励もうと、扇風機に好きな作家の顔を貼っています。中でも、京極夏彦先生の風が一番気持ちいいと思いました。皆様もどうかご自愛くださいませ。
(写真:稲田ズイキ 編集:はつこ)
稲田ズイキ
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