#今できるたすけあい
コラム

Under The Rainbow

今度結婚する人と会ってほしい、と母は言った。

11月のある日、私は北関東のある別荘地へ向かっていた。
母の結婚は3度目だった。

私は、うんざりだった。

大阪から交通機関を乗り継ぎ、
半日かけて指定された場所に着く。

場所は、古い小屋のような一軒家だったが、
それについては何の説明もなかった。

弟は先に着いていたが、
だれもが、お互いに目を合わせず押し黙っていた。

初対面のその男性と私も、
目を合わせず名乗りあった。

無言の時間が過ぎて、そのまま日が沈み、
鍋を囲んで食事をしよう、と男性が提案した。

母は黙って支度をしたが、
知らない男性と同じ鍋をつつくのは気が進まない。
沈黙に耐え切れないように、男性が言葉を発する。

「君のお母さんがどれだけ苦労して君を大学まで卒業させたか、よく聞いているよ」

母が、彼に聞かせていたのは、
自分がいかに苦労して息子たちを育てたか、という
だれにもたしかめようのないストーリーだった。

ところどころ、事実とは違う。
だが、私はそれを責める気にはならない。
人には生きていくすべというものがある。
28歳になった私は、そのくらいのことは知っていたつもりだった。
しかし、母と私の関係は、結局、言葉にはできない愛憎というものだ。

小学1年生のとき、母は私の父と離婚した。
私にとっては、苗字が変わることも、父親と離れて暮らすことも、
なにもかもが理解のしようがない出来事だった。

その後すぐ新しい夫との間に弟が生まれた。
私は、その男性のことを何年も父と呼ぶことはできず、
離れて暮らす父に会いにいくために家出を繰り返した。

その姿を見かねて、新しい男性は、
いつでも私が父親に会いに行けるように
すぐそばに引っ越すという決断を下してくれた。

そのとき、不思議なことに、
やっとその人をお父さんと呼べるようになったのだ。
家には「お父さん」がいて、歩いていける距離に
「本当のお父さん」がいる。

しかし、その状態も長くは続かなかった。
高校に入った頃、家庭は困窮し、
暴力を伴ういさかいが絶えなくなり、私は家を出た。

高校の同級生の家に身を寄せたのである。
その男性と母は離婚した。
弟にとっては実の父だが、その後、私たちは彼に会ったことがない。
だが、私は離婚した男性の苗字をそのまま使って今に至っている。

私は国から奨学金を借りて高校をなんとか卒業し、
昼間はトラックの運転手をしながら夜間大学に通った。
私は就職し、28歳のこの日、北関東に呼び出されたのだ。

鍋が煮えるぐだぐだという音だけが響く。
だれも箸を動かさず、私はいたたまれずテレビをつけた。

画面では辰吉丈一郎とタイ人王者との試合が始まったところだった。
世界王座を転落してから、いったい何度目の挑戦だ。
なにが「浪速のジョー」だ。勝つわけないだろう。
いい加減あきらめろ。

同じことを思ったのか、今日会ったばかりの男性は、
テレビを勝手に切り、酒も入って余計な説教を始めた。

「私は60代、君のお母さんは50代だ。
私たちはこれから、たすけあって生きていこうと思っている。
君ももう社会人なんだから、お母さんをたすけなさい。
これから君は私の息子になるんだから」

私は激昂した。

急に現れて、何を勝手なことを言っている。
おれがどうやってここまで生きてきたのか、何を知っている。
あんたがおれの母親と結婚するのは好きにすればいい。
だが、いつおれがあんたの息子になると了承した。

鍋をぶちまけ、テーブルごとひっくり返した。
皿が割れて床に散らばる。
自分が加わると収集がつかなくなると思ったのだろう、
弟は黙って部屋を出ていった。

そのまま、眠ることも、横になることもできず過ごした。
夜通し、雨が降っていた。
母の泣き声だけがいつまでも響いていた。

翌朝、雨は上がっていた。
母は黙って朝食を作り、私たちは無言のままそれを食べた。
割れた皿には、裏側からガムテープが丁寧に貼られていた。

だれもお互いに謝ったりしなかったが、
静かな朝だった。

最寄りの駅へ行くために、タクシーを呼んだ。
4人で1台の車に乗り込むこと自体気まずかったが、
運転手はことさらによく喋る人だった。

「いやぁ よっぐ降りましたねえ。
でもここはよぐ雨が降るんで、水がうまいんですよ」

「みなさん、どこからお越し? 大阪?
こらまた遠いとごから。いやあ。大阪はよぐ知ってんですよ、
2年前に関西、あっちこっちいったんでね」

あまりのやかましさに弟はヘッドフォンを耳にねじ込む。
私はつい、

「どうして関西へ?」

と尋ねてしまった。

「いやあね、わだす、タグシー乗る前はタンクローリー運転してましてね、
2年前の阪神淡路大震災のとき、
こりゃあ被災地じゃあ飲み水が足りなぐなるってね、
タンクローリーの仲間と何十台で、水いっぱい汲んでひとっ走りしたんですよ。
水がうまいって言ったでしょ?このそばに尚仁沢ってね、
日本の名水で一等賞になった水が湧いてんですよ。
徹夜で運転しましたよ。もう無我夢中でね。
でもね、それをいろんな避難所で飲んでもらっだら、いやぁ、喜ごんでぐれで。
ところでご家族、お父さん、お母さん、息子さんら、被害はながったですか」

私は2年前、1995年の震災を思い出していた。
実の父が独り住む家が全壊し、駆けつけた私は父と避難所で凍える夜を過ごした。
全国からいろんなナンバーのトラックがやってきて、
私たちに足りないものを持ってきてくれた。

水ではなかったが、その中に栃木のナンバーのトラックもあったのを記憶していた。
そうか。目の前にいるこんな人が、無我夢中で走ってきてくれたのだ。

「そうだったんですか……ありがとうございます。あのときは……たすかりました」

「いやぁ、たすけあいってのは、お互い様だから。
わたすになんがあっだら、そんときゃだれかがたすけてくれるべ」

運転手はミラーを見ながら言った。

「うすろ、見でください。よぐ降ったもんで、虹が出てますよ」

私は弟のヘッドフォンを引き抜き、肩を叩いた。
全員が後ろを見た。

「昔の人はなんだかキザなことを言ったもんでね、
虹の下をくぐったら、幸せにたどりつけるって。
え? お客さん、どうしました?」

私たち4人は黙って泣いていた。

さっきまでいた小屋が、ちょうど虹の真下に見えていたからだ。

大阪へ帰る列車に乗るとき、スポーツ新聞の一面が見えた。

辰吉丈一郎は、勝っていた。

それから数年をかけ、母の夫と私は少しずつ話すようになり
私は、彼と母がたすけあって生きていく姿を認められるようになった。

2011年、あの運転手の言葉を思い出した。
私は東北のいくつかの町を訪れ、
自分がそのとき精一杯できることをしたつもりだ。

今年2020年、私は母が再々婚した年と同じ50歳になった。
そして今、世界は新型コロナウイルスによる災厄に襲われている。

だれもがたすけあい、お互いの命を守らなければならないときだ。
だが、私が感染者となっても、大切な人がこの病に倒れても、
駆け寄り、そばにいてあげることができない、という難しい問題がある。

しかし、だれかがこの状況から世界を救おうとしている。
あきらめないで、挑戦しようとしている。
無我夢中で、人間をたすけようとしている。

私は、出会ったあの人のように、
いつかそのだれかをたすける人になりたい。

そして、「虹が出ていますよ」と希望を指し示せる人になりたい。
そう願うのだ。

田中泰延

1969年大阪府生まれ。株式会社電通でコピーライターとして24年間勤務ののち退職、2017年から「青年失業家」を名乗り、ライターとして活動を始める。2019年6月初の著書『読みたいことを、書けばいい。』を上梓。X(旧Twitter):@hironobutnk

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