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2011年7月号 人に優しい「食」のススメ―「スローフード」という生き方 第3回 よく食べてよく生きるそれが精進料理の心

家族と食卓を囲みながら、ゆったりとした時間を過ごし地域のことにも思いをはせるーー。そんな、あたりまえの「豊かな暮らし」を求める人が増えています。「食の安全」「地産地消」「スローフード」などのキーワードがしばしばメディアを賑わすのも、そうした表れの1つ。このシリーズでは、「食」と「暮らし」を巡って議論されている、古くて新しい豊かさと幸福、持続可能なライフスタイルとは何か、を探っていきます。

第三回目にご登場いただくのは、精進料理研究家として活躍中の僧侶、高梨尚之さん。「精進料理から学ぶ禅の心と日本のスローフード」についてうかがいます。

 

豊かな自然に囲まれた静寂な山寺を訪れた取材陣に、修行道場で典座(寺の料理長)を長く務めた高梨住職が、さっそく手作りの精進料理をふるまってくれた。

二汁五菜形式、初夏のもてなし精進料理。このうち「坪」までが、いわゆる一汁三菜と呼ばれる基本の膳。今回は、「もてなし」の意味を込め、二汁五菜の献立を用意していただいた。

誤解されがちな「精進料理」

個人的に、「精進料理」というと質素で味が薄く、どちらかというとマイナスの印象を持っていましたが、いただいたお料理はいずれも滋味に富み、また食材も非常に豊富で心身ともに満たされることに驚きました。


本日の献立の中で、一汁三菜にあたる基本膳。
手前左から飯、香菜、汁、後左から平、坪、膳皿。

高梨 みなさん、同じような感想をお持ちになります。おっしゃる通り、精進料理について残念ながら誤解されている方が多いように感じています。私は、曹洞宗に七五〇年来伝えられてきた精進料理を正しく世に紹介し、その素晴らしき考え方を多くの方に知って欲しいと切に願っております。

  精進料理に対する誤ったイメージは、古くは平安時代にもありました。『枕草子』には、「そうじもの(精進物)いとあしき」と書かれています。寺に弟子入りするお坊さんはあんなまずそうなものを食べてかわいそう、と言う訳です。

  今日でも、あまりおいしくないものを我慢して食べるのが精進料理だ、と思い込んでおられる方が大勢いらっしゃるかも知れませんが、それは明らかな誤解です。

  精進料理の基本は、目の前にある食材に手間と愛情をかけ、食事をできるだけおいしく、そしてありがたくいただくことにあります。

  せっかくのお野菜ですから、なるべくおいしく食べていただけるように料理しなくてはお野菜に申し訳ないでしょう。そこが典座和尚の腕のみせどころです。

  もちろん「美味しい料理」といってもいわゆる世俗的な美食を求めるのではなく、素材の持ち味を引き出す「禅味」をめざした調理の工夫が大切です。粗末な食材でも貴重な高級食材でも差をつけることはなく、同じように手間と工夫を惜しまず調理します。

  ふだん濃い味になれてしまうとなかなか気づきにくいのですが、野菜には「野菜本来の美味しさ」があります。先ほどの料理をみなさんが美味しいと感じたなら、それは「野菜の美味しさ」を感じることができたということです。

  よき修行にはよき食事が欠かせません。美味しい料理を食べて心も身体も満足し、そして今日一日一生懸命生きるのが禅の教えです。おいしくない料理を無理に我慢して食べていたのでは健康を維持することは難しいでしょう。

  また、一般的に精進料理というと「食材に肉魚を使わない」あるいは「臭いの強い野菜を避ける」などと食材の選定条件で定義されることが多いのですが、私自身は、究極的には食材の制約はたいした問題ではないと考えています。

  精進料理の教えを正しく理解し、本質をおさえた上でなら、どんな料理にもその心を適用させることができ、皆さんの日常の生活に活かすことができると思うのです。

  そのためにも、誤解が多い精進料理のイメージを変えていけるよう、本来の教えを正しく広める努力が必要だと感じております。

なかでもサブジーは、まさに、わたしが抱いていた精進料理のイメージを根本から覆すものでした。日頃食べている「カレー」にも似たスパイシーな風味がしましたが、あれも精進料理なのでしょうか?


寺の裏山で梅の実を収穫する高梨住職。
食材を慈しむ暖かな表情が印象的だ。

高梨 あれは、エスニック風の精進料理です。香辛料としては、カルダモンをベースに、ローストカレーパウダー、ナツメグ、黒こしょうなどを使っています。

  仏教はもともとインドが発祥地で、中国を経由して日本に伝わってきました。当然ながら、その土地の風土や文化に根ざした精進料理が考えられます。

  意外に感じられるかも知れませんが、じつは厳格な修行道場でも「カレーライス」を作ることがあります。仏様にお供えした野菜のおさがりをいただく際、季節によっては野菜が傷んでそのままでは食べにくい。そこで、古い野菜も無駄にせず、おいしくいただくために、香辛料を利かせたカレーにするのです。

  ところで、たとえばあえものや揚げものなど、現在では一般家庭でもおなじみの料理法は、かつて禅僧が伝えた技法であるともいわれています。

  かつて多くの禅僧が中国大陸へ修行のため渡航しました。滞在中にすぐれた大陸の文化に触れて帰国した僧が、新しい調理法や道具、食材や慣習などをわが国に伝えた例は少なくありません。つまり当時の留学僧はわが国と大陸との文化交流の役割も担っていたのです。

  そしてそれらの技法が本山から各地の寺に伝播し、さらに寺でのもてなしを通じて村人たちに伝えられていったと考えられます。各地に伝わる郷土料理に、精進料理の技法と相通ずるものが見られるのはそのためではないかと思います。

  かつて冠婚葬祭の折には、各地の食文化に彩られたさまざまな手作り料理が食席でふるまわれました。現在は仕出し店などに依頼する例が増えてきましたが、私はそうした歴史と伝統に根ざした、その地域ならではの個性的な料理を後世に受け継いでいくことも大切なのではないかと思っています。

精進の心を伝える典座(てんぞ)の役割

ところで、和尚ご自身が「精進料理」に興味を持ち、その普及につとめようと思われたきっかけはどこにあったのでしょうか?

高梨 うちの寺は田舎ですので、世襲を批判する風潮などみじんもなく、むしろ寺の長男が当然跡を継ぐものだと周囲に期待されて育ちました。一時期反発したこともありましたが、やはり寺で育った身としては、生活の端々で仏法のエッセンスに触れる中で、禅の素晴らしさを身体で感じ取ることができ、自然に僧侶という生き方を選ぶ土台が培われていったように思います。

  特に当地では今なお昔ながらの伝統精進料理が伝えられている土地柄で、小さい頃から四季折々の精進料理を口にすることができたのは何よりの宝だと思っています。

  永平寺で修行中、多くの優れた老師や先輩、そして良き仲間と出会い、さまざまな経験を通じてたくさんの教えを学ぶことができましたが、なかでも料理係に配属されて出会った赤崎玄輝(あかざきげんき)老師には言葉では表せないほどのありがたい指導を受けました。卓越した料理技術はもとより、料理が大切な修行であるということを言葉ではなく行動で教えてくださいました。禅では、良き師との出会いを重視しますが、まさに私にとってかけがえのないご縁をいただいたと思っております。

  その赤崎老師がのべ20年来つとめた永平寺の料理係を辞する際、それまでの精進料理献立をまとめる役目を私に命じてくださいました。老師が口述する調理法や献立を書き留めるなかで、ある日老師はこんなことを私におっしゃいました。「今まで、永平寺の精進料理は口伝により師から弟子へと伝えられてきた。もちろん、微妙な火加減や調味料の量などを面と向かって正確に伝えていくことは大切じゃ。しかしその反面、口伝では多くの者に伝えるには限界がある。これほど素晴らしい教えを、一部の僧が独占していてはいけない。これからの時代は、広く一般社会に精進料理の心を伝えていけるような工夫が必要になる。わしから習ったことを、若いおまえがうまいこと広めていくことを願っておるぞ」

  永平寺での修行を終えた私は、そのお言葉を実行に移すべく「典座ネット」と名付けたウェブサイトを開設し、テレビやラジオなどでの出演、雑誌や新聞での連載、そして何冊かの書籍を出版するなどの具体的な行動をとりました。多くの好意的な反響があった反面、「永平寺の繊細な精進料理をレシピ化するなんて、伝統的な口伝に対する冒涜ではないか」というような厳しいご批判も受けました。正直言ってくじけそうな時もありましたが、赤崎典座老師のさきのお言葉を心の支えとして、今も試行錯誤しながら精進を続けております。

  ちなみに書籍の中で恩師である赤崎老師を称して「昭和の大典座」と名付けたのは私自身です。あるとき赤崎老師を久しぶりに訪ねると「勝手にわしに肩書きをつけおって。いつかおまえが平成の大典座と呼ばれるようにならんと勘弁してやらんからな」と笑顔で仰いました。

精進料理と言えば、道元禅師が著した『典座教訓(てんぞきょうくん)』と『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』がよく知られています。禅僧にとっては、それぞれどのような意味を持つ書物なのでしょうか?

高梨 禅の修行道場において、食事を作るものの心構えを説いたものが『典座教訓』、それを食べるための心構えと作法を説いたのが『赴粥飯法』です。道元禅師は、料理を作るのもいただくのも仏道修行そのものである、と説いています。

  多忙な現代人にとって、「食べること」は取るに足らない些細なことであり、もっと重要なことがほかにもたくさんあると考える人も多いことでしょう。じつは、道元禅師も当初、それと同じような感覚を持っておられたようです。

  たとえば、こんなエピソードがあります。若い道元禅師が修行のために宋を訪れた時のこと。上陸許可が降りるまで船にとどまっていると、現地の典座和尚が食材を買うために船を訪れました。道元禅師が現地の情報を求めて食事の席に誘うのも聞かず、典座和尚は急いで寺へ帰ろうとします。気を悪くした道元禅師は、その年配の僧に向かってややきつくこう言いました。

  「食事の用意など、誰かほかの者がするでしょうに。あなたのようないい年をした僧が坐禅や仏法の勉強ではなく、わずらわしい料理係を一生懸命務めて何か良いことでもあるのですか」

  すると、その典座和尚は大笑いしてこう返したというのです。

  「日本から来た前途ある若者よ、あなたは修行とは何であるかが、まったくわかっていませんな」

  禅の修行道場において、食に関するすべての責任を任された典座はとても重要な役職のひとつ。その重要な役職を担う年配の僧には、「食べること」と「修行をすること」はそもそも一体であり、それを分けて考えるのはおかしい、ということがよくわかっていたのだと思います。

道元禅師が示した「三心(さんしん)」と「五観の偈(ごかんのげ)」とは?

「食べること」と「修行をすること」は同じであるとは、どういう意味なのでしょうか。
詳しく教えて下さい。

高梨 禅では、ごはんを作る、食べる、掃除をする、お経を読む、さらには、よき休息のためにしっかり寝たり、排便や入浴、歯磨きなどもすべてが大切な修行です。

  禅には「随所に主となす」という言葉もあります。わかりやすく言えば、なんでも主体的に一所懸命取り組みなさい、ということ。勉強や仕事でもそうだと思いますが、我慢をしながら、あるいは人に言われたからと、いやいややっていたのでは何ごとも身につきません。遊ぶにも、学ぶにも、働くにも、休むにも、寝るにも、とにかく自発的に精一杯努力する。

  苦労の中にも希望を探し、悲しみの中にも喜びを見つけ、どうせやるなら心から楽しんで主体的に行った方が良い結果がでるはずですし、仮に思うような結果が出なくても何か残るものがあるのではないでしょうか。

  また道元禅師は、何ごとを行うにもけっして忘れてはならない心がけとして『典座教訓』の巻末で「三心(さんしん)」を示されました。

  【三心とは】

  「喜心(きしん)」: 仏様のみ教えに出会い、調理できるご縁に感謝し、食べる人の幸せを
  祈って積極的にとりくむ心

  「老心(ろうしん)」: 親が我が子を育てるように自分の苦労をいとわず、見返りも求めない
  慈しみの心で、相手の立場に立って親切に調理する心

  「大心(だいしん)」: 大きな山や広い海のようにどっしりとした、固執したり偏ったりしない、
  やすらかな心

  現代では贈り物やもてなしなどで、とかく金銭的に高額なものや高級なものが良いとされがちですが、精進料理においては必ずしもそうではありません。この三つの心が調和して作られた料理は、たとえありふれた安価な食材を使っていても、作った者のまごころが食べる相手に必ず伝わるものです。

  逆に食べる側としては、うわべだけの見栄えや食材の豪華さに目を奪われることなく、その食事が作られるまでの生産者や料理人の手間や苦労、そして自分の活動エネルギーとなってくれる食材の尊い命などに想いを巡らせ、感謝していただく姿勢が大切です。

  それを食前に自戒して唱えるのが『赴粥飯法』に記された五観の偈です。

  【五観の偈とは】

  一つには、功の多少を計り彼の来処を量る (感謝の心)

  (この食事ができるまでにかけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらす)

  二つには、己が徳行の全ケツをはかって供に応ず (反省の心)

  (自分はこの尊い食事をいただくに値する正しい行いをしているだろうか)

  三には、心を防ぎ過るを離るる事は貪等を宗とす (戒めの心)

  (過ちの元となるむさぼり、怒り、愚かさの三毒をおさえ、正しき心をもっていただきます)

  四つには、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり (節制の心)

  (美味を楽しむためではなく、この身を保つための良き薬としていただきます)

  五つには、成道を成ぜんが為の故に今この食を受く (誓いの心)

  (この尊い食事をいただき、自他ともに皆成仏を成すことを願い、ありがたくいただきます)

  永平寺などの道場では、この五観の偈を唱えてから食事をいただきます。一般の方たちが食事の前に手を合わせて「いただきます」と言い、終われば「ごちそうさま」と言うのは、この五観の偈にある考え方をより簡単な言葉で表したものだ、と考えて良いと思います。

「よく食べること」は「よく生きること」につながる

忙しい現代人はとかく、「食べること」を軽視し、それを面倒なことだと考えがちです。

高梨 一般の日常生活を送る方たちに、「毎日精進料理を作りなさい、食べなさい」と言っても無理でしょうし、栄養学的にも不足があろうかと思います。

  ですから、わたしが精進料理を教える際にも必ず、「今日教わったことを毎日やろうとは思わないで下さい」と生徒さんたちに言います。

  毎日の仕事がとても忙しく、調理済みのお弁当やお惣菜を買って食べる時間しかとれないのだとすれば、その状況をまずはいったん受け入れる。その上で、パックに入ったお総菜でも、それを一つひとつお皿に盛ってから食べるようにする。たとえインスタントラーメンでも、鍋から直接箸でつついたりしないで、ちゃんとどんぶりに分けて食べる。それだけでも、随分と意味があることです。そして時間があるときには、たとえ簡単な一品でもいいから手作りの料理に挑戦してみる。

  ただし、そうしたことを無理なく自然にできるようになるにはやはり、実際に、自分で手間暇かけて料理を作ってみる体験が必要だろうと思います。

  食育説法でたまに子どもたち相手の料理教室を開くと、「うわぁ、お母さんは毎日こんなに大変なことをしていたんだ」と感想を漏らす子どもがいます。実際に自分でやってみることで、これまでは見えなかった調理する人の苦労や愛情が見えるようになる。食育説法で伝えたい一番大事なことは、じつはそこです。

うかがっていると、「食べること」は自分の体を丈夫にするためだけではなく、作物を育ててくれた方、そして、それを調理した人との心と心の触れ合いでもある、という気がします。

高梨 まさにおっしゃる通りです。与えられた食材と食事に感謝し、その命を無駄にしないように精一杯生きる。あるいは、その食事を通じて、作る人と食べる人が心を通わせる。精進料理が問いかけているのは、そうした生きる姿勢です。

  たまに、「食べること」を体に燃料を入れるようなものだ、と勘違いしている人がいます。自動車に10リットルのガソリンを入れれば、間違いなく、10リットル分走ることができる。しかし、人間はそうではありません。食べても、そこに十分な「心」が感じられなければ、それは命を精一杯燃やす燃料にはなりません。逆に、心がこもった暖かい料理であれば、仮に数値上は5リットルしかなくても10リットル以上の力を出すことができるのが人間の素晴らしいところなのです。

  日本のような先進国では、人間が食べるためにわざわざ自分の畑で作物を育てなくてもよく、ス―パーへ行けば、いつでも誰でも豊富な食材が手に入ります。米を炊くためにかまどに火をくべる必要もなく、冷蔵庫があるため、食材が簡単に腐る心配もありません。場合によっては、まったく調理しなくても生活していける。これはある意味で非常に便利なことですが、半面、危険な生活でもあります。

  電化製品が普及するまで、人は生活時間のほとんどを「食べること」だけに費やしてきました。種をまいて作物を育て、それを管理し、収穫する。あるいは、加工する。「働くこと」のほとんどは、食べるためにあったのです。それがいつしか「食べること」と「働くこと」が完全に分離され、「食べること」をおろそかにした結果、「生きること」に悩む人が増えていった。

  ですから、「より良く生きたい」と考えれば考えるほど、その根本を支える「よい食事」というものに立ち返っていかざるを得ないのは当然のことだろう、という気がします。

「よく生きる」とはどういうことなのでしょうか?

高梨 わたし自身もいまだ修行の途中にある身ですので、偉そうなことは言えません。ただひとつお伝えしたいのは、禅の修行を積んだからといって、人生が劇的に変わることはないだろう、ということです。急にお金の苦労から解放されたり、まったく働かなくてもよくなったり、悩みがまったく消えてなくなる、なんてことはありません。何かをひとつつかんだり理解しても、次の悟りに向かって進んでいくだけ。修行の道に終わりはない、と感じます。

  考えてみれば、人生も同じこと。劇的に何かが良くなることばかりを期待していると、そうならないことを悔やんだり、他人を恨んだりした人生を送ってしまいます。それよりも、日々の食事をできるだけ丁寧に、食材から与えられた命を十分に活かす生き方をしようと心がけることで、少しずつ、確実に、「何か」が変わっていくのを楽しむことができる。

  禅の「日々是好日」とはつまり、そういう生き方・考え方を表した言葉だと思います。

高梨尚之(たかなし・しょうし)


 

永福寺住職・精進料理研究家

1972年、寺の長男として生まれる。曹洞宗大本山永平寺にて禅の修行を積み、精進料理の技と心を学ぶ。2001年より2005年まで、大本山永平寺東京別院にて副典座および典座を務める。現在、三心亭無苦庵にて精進料理研究のかたわら、「典座和尚の食育説法」と称して講演・執筆・精進料理教室などを行う。主著に『永平寺の精進料理』『永平寺の心と精進料理』(ともに学習研究社)、『典座和尚の精進料理 家庭で楽しむ100レシピ』(大泉書店)がある。専門家について調理撮影の技法も学び、禅と精進料理についてはウェブサイト「典座ネット」( http://www.tenzo.net/ )でも詳しく解説している。


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