• ご加入の皆さま
  • マイページ
  • 共済金のご請求

今月の「生きるヒント」

シリーズ 人生のチャレンジ 移住を選んだ人たち 第22回《前編》廣瀬 圭治さん

ロジカル思考で高い実現力。クリエイターが次なる夢に描くのは、豊かな山と、バスプロになった自分!

後編はこちら

プロフィール
ひろせ・きよはる/兵庫県出身。高校を卒業して間もなく、せまい地域での母親とのふたり暮らしから自由になりたくて家出。バイトをしながら友だちの家を転々とする。鳥山明に憧れ、地域新聞向けの四コマ漫画を描いていたことも。21歳のときに仲間とバイクで旅した北海道で、出会った自然や人に感動し、長く旅するように。旅人卒業後は好きな「絵」の仕事に携わるべく、パソコンを購入。インターネットの世界に可能性を見いだし、また、その頃ハマったクラブカルチャーに刺激を受け、グラフィックデザインや映像を学び習得する。後にウェブ制作会社「キネトスコープ」設立。その10年後、徳島県神山町にサテライトオフィスを置いて家族と移住。地域おこしに関わりながら、ヒマがなくてもバスフィッシングにいそしむ。キネトスコープ公式サイト
廣瀬圭治さんのじぶん年表

十代で家出。二十代で旅に魅せられて

― 廣瀬さんは19歳で「家出」されていますね。

廣瀬さん:はい。家出しました。尼崎での母親とふたり暮らしだったのですが、広い世界で自由にやりたくて。「心配しないで」と置き手紙をし、最初は友だちの家を転々と。半年くらいは居場所も連絡しませんでした。心配しますよね(笑)。

― 心配されたと思います…。高校を出て、家出するまでは美容師の修行をしてたんですよね。

廣瀬さん:中学の頃から、今で言うヘアスタイリストになりたかったんです。サラリーマンにはなりたくなくて、かっこ良く見えたんですね。いざやってみたら、イメージと違ったので、すぐに見切りをつけ、レンタルビデオ屋でバイトしながら地域新聞に四コマ漫画や挿絵を描いたりしてました。

― 漫画が好きだったのですか。

廣瀬さん:漫画も絵も好きで、鳥山明みたくなりたいと思ってました。

― このあたりから、少しずつ将来の仕事に結びついてきますよね。

廣瀬さん:そうなんですよ。このあと、21歳で実家に戻り、派遣で工場のライン工をしていたのですが、その頃からものづくりもすごく好きで、それなりに面白かったんですよね。派遣で行っているのに、生産性向上のための提案を積極的にして、実際に向上させていました(笑)。

繰り返し北海道を旅していた時代、美瑛の丘にて。この場所は廣瀬さんにとって北海道の定番。

― あはは、すごい。すでに経営者視点も!

廣瀬さん:工場では見込んでもらっていたのですが、1ヶ月の休みをもらって高校時代の仲間と出かけた北海道周遊バイクの旅が転機となり、結局辞めてしまいました。

― 転機というのは。

廣瀬さん:大自然と、その中で生きる人々に感銘を受けたんです。例えば漁師さんは、海で命がけの仕事をしているわけですよね。それなのに、“今日穫れた一番の魚”をポンっとくれたりするんですよ。それまでは一次産業に従事している人たちとの接点もなかったので、「ガチで生きてる」と感動しました。心を奪われて、以降3年ほど、年の半分近くは、北海道を中心に全国を旅するようになりました。

― 年の半分はすごい。

廣瀬さん:貧乏旅行だから、途中でバイトしながらしのぐんですよ。北海道では一日中ニンジン掘ったり、サケやカニの加工工場で働きました。これがまぁ、キツくって、腕なんかパンッパンになりましたね(笑)。

日本初の活蟹通販。なにがあとにつながるかわからない

― カニと言えば、のちにカニのネット通販を立ち上げていますね。

廣瀬さん:そうそう、生きたカニの産直通販です。当時は日本初、おそらく世界でも初だったはずですよ。北海道で肉体労働のバイトをしているときの、銭湯での出会いがそれにつながりました。

― 銭湯で?

廣瀬さん:見事な入れ墨の人に出会って、思わず「きれいですね」って話しかけたんです。そのときは料理人で、つまりは堅気の人だったのですが、怖がらないのは珍しいと気に入られて、それから仲良くなりました。カニの通販も、彼が現地での手配をしてくれました。

― そうだったんですか。そんなご縁で。通販は成功しましたか。

廣瀬さん: 成功したんですよ。生きたカニが届いて感激されて、お礼の手紙が届くようになりました。口コミで広がって、次のステップのための資金をつくることができました。

― 続けようとは思われなかったのですか。

廣瀬さん:思いませんでした。もともと、自分探しの旅は卒業して前に進もうと決めて、大好きだった絵に携わる仕事を見つけようと思っていたんです。再び派遣で働きながら、その頃描いてた絵を3Dソフトで表現するため、つまり絵のためにパソコンを購入したことでインターネットに触れて、「これはこの先必ず主流になるぞ」と確信したんですよね。

古民家に手を入れて、オフィスにしている。この日のインタビューは外で。

― その頃はまだ、インターネットも普及していませんでしたものね。主流になると確信して、試しにカニの通販をやってみたんですか。

廣瀬さん:そんな感じです。通販で稼げたので、それを元手に大阪に引っ越しました。大阪で就職しようと思っていたのに、同級生に誘われてクラブに行くようになったら、今度はクラブカルチャーにすっかりハマってしまって。

― ハマりましたか。

廣瀬さん:ファッションも、音楽も楽しいし、それをつくる人たちがまた刺激的でした。結局のところ、僕はつくる側にいるのが好きなんですね。VJ(ビジュアルジョッキーと呼ばれ、クラブで音楽を担当するDJに対して、映像演出を担当する)を始めるようになりました。VJでそこそこ全国区になったんですけれど、それだけで飽き足らず、フライヤーをつくりたくて、口八丁を駆使して、プロの現場にバイトで潜り込んだり、大学の広報として雇ってもらってグラフィックデザインを学んでゆきました。

― いよいよ、ウェブ制作の道への道筋が整ってきましたね(笑)。

廣瀬さん:元来飽きっぽいので、いろんなことに手をつけてきたのですが、なんだかんだ、全部つながってますでしょ。

ゴール地点と思っていたら、そこからスタートだった?

― つながってますねぇ。

廣瀬さん:目的に対してはロジカルに動くので、実現力はあるほうだと思います。グラフィックデザインや映像は自分でできるようになったし、ウェブの時代だからと、自然とウェブ制作の方向に進みました。30歳のときにフリーランスとして独立して、会社を設立したのはその3年後。当時としては新しいクレイアニメを用いたゲームや、Eラーニングなども手がけました。

― 廣瀬さんには、すごく時代を読む力がありますよね。一番いいタイミングでウェブ制作を事業にして、今はこうして、地方でしかできない暮らしやお仕事を成り立たせている。

廣瀬さん:田舎で働く構想は独立したときからあったんです。北海道の暮らしがイメージにあったので、豊かな自然の中で最先端の仕事をする、自由なクリエイティブ集団になる構想。当時は、和歌山くらいが適当かな、と思っていました。工場跡地かなんかの広い土地を買い上げて…。

向かって右の母屋がご自宅、左のはなれがサテライトオフィス。

― 当時としては最先端の発想ですよね。

廣瀬さん:最近では、僕らのように、田舎で新しい働き方、暮らし方を目指す人たちがすごく増えてきましたもんね。でも実は、忙しさに追われて、そんな構想もしばらく忘れてたんですよ。2012年に東京ミッドタウン・デザインハブで展示会をやることになり、ウェブ制作会社としては、かなり上まで登ってきたなと、社内でも話していました。そんなとき、今では神山でのサテライトオフィス仲間となったダンクソフトという会社の副社長さんに出会って、神山のことを教えてもらい、働き方や仕事に対するビジョンを聞くことで刺激を受けて…。

― 独立時に描いていた構想が蘇った。

廣瀬さん:そうなんです。蘇ってきたら、さっきまでゴール地点にいるような気がしていたのに、これからがスタートかもしれないと(笑)。そこからはバタバタと展開し始めました。

― そこから、神山にサテライトオフィスをつくって、ご自身も移住するまで早かったんですね。

廣瀬さん:いや、移住については、まんまとつかまったというか、だまされまして(笑)。