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被災者・被災地の復興へ向けて―東日本大震災を乗り越えて

臨機応変に行動する力が培われていたことで、生徒全員が生き延びることができた

釜石市立釜石東中学校 生徒指導部長 齋藤 真さん

  3月11日に東日本をおそった未曾有の大震災。地震と津波の甚大な被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による二次被害が震災をさらに深刻なものにしているのが現状です。
  こうした状況の下、私たちに何ができるのでしょうか。
  本連載では、東日本大震災の復興に向けた様々な取り組みやビジョンをレポートすることで、よりよい復興に対する理解と議論を深めていきたいと考えています。

岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町は津波によって、死者・行方不明者約600名という壊滅的な被害を受けました。その中で、海岸沿いに学校があった釜石市立釜石東中学校はひとりの犠牲者も出すことなく避難し、“釜石の奇跡”と言われています。釜石市立釜石東中学校 生徒指導部長 齋藤 真氏に3月11日当日の様子や同校の防災教育などについて聞きました。

 


被災直後、海に沈む釜石東中学校

 

おばあちゃんの一言を聞いて行動し、生き延びる

東日本大震災が起こった時の様子を教えて下さい。


図1・中学校からの避難した道筋

齋藤 放課後の部活動に入ろうとしていた時間でした。私はバトミントン部の顧問なので、練習のために職員玄関先で靴のひもを結んでいたところ、近くの山でドーンと大きな山鳴りがしたのです。地震の時は山鳴りがするのですが、ゴゴゴゴという音と共に今まで経験したことがない、大変な揺れがやってきました。鉄筋の校舎はぐにゃぐにゃに揺れ、倒れるのではないかと思うくらいで、私は立っていることができませんでした。揺れが少し収まった後、急いで職員室に戻り、副校長に「全校避難するように放送をかけて下さい」といったのですが、停電で放送ができません。そこで、ハンドマイクを持って、「校舎の外に出ろ」と言って回ったのですが、すれ違う生徒が少ないのです。

  「あれ」と思った時には、すでに生徒は皆校庭に出ていました。そこで誘導していた教員が「点呼はいいから、すぐに避難しろ」といったので、その人を先頭に、700メートルほど上手で避難所になっている「グループホームございしょの里」まで走ったのです(図1)。時間にして、5分ぐらいで、私が校庭に出た時にはもう誰もいませんでした。私は用務員の人が運転する車に乗せてもらい、生徒たちを追いましたが、彼らはすでにございしょの里の近くまでたどり着いていました。いつやってくるか分らない、しかし確実に迫り押し寄せてくる波を背にして、10分近くも走った生徒たちはどんな気持ちであったか、その心中は察しきれません。

その後、さらに坂を上った土手の上にある
「やまざき機能訓練デイサービスホーム」まで、避難します。


写真1・小中学生と近所の人たちが逃げる時の様子

齋藤 ございしょの里で、生徒の避難状況を確認していたら、私の袖を引っ張るおばあさんがいるのです。「今子どもたちの点呼をしているから申し訳ないけれど、後にして」と言ったら、「先生!」と強く袖を引いて、「話さなきゃいけないことがある。ともかく聞け」というのです。「何したの」と言うと、「今までずっとここで生きてきたけれど、ございしょの里の脇の山の岩盤が崩れたのを見たことがなかった。それが崩れたのだから、とんでもないことが起こる。ここにいたら、死ぬぞ」と言うのです。確かに余震が続いていて、岩盤はがらがら崩れているので、おばあちゃんの言っていることを副校長に話したのです。副校長は一瞬考えて、「では、避難しましょう」と400mほどさらにのぼっていったところにあるやまざきデイサービスホームに若手教員をやって状況を確認させ、自分はございしょの里の職員に連絡しに行きました。

  そして、釜石東中学校と隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の生徒・児童及び教員600名以上、近隣の病院の患者、ございしょの里の入所者と職員など全部で700名以上が一斉に、やまざきデイサービスホームに逃げたのです(写真1)。

 

道はなくても、生きるために山に登り続ける子どもたち

それで、全員が助かったわけですね。

齋藤 鵜住居町では死者・行方不明者約600名と言われています。ですから、おばあちゃんのいうことを聞かずに、ございしょの里に居続けたら、被害は倍近くになっていたと思います。私たちはおばあちゃんの言葉を信じたので、助かったのです。やまざきデイサービスホームに着いたら、そのおばあちゃんがいて、「いがったなあ。これで生きたぞ」と言われました。その言葉に実感がなかったのですが、建物の裏手に回って、「津波が来るのかな」と逃げてきた方角を見ていたら、ゴゴンと大きな音がして、煙が上がったのです(写真2)。「まずい、火事だ」と思ったら、北隣の大槌町との境に連なる山影を消すように、煙のような水しぶきをいくつもあげながら津波が押し寄せてきました。その波は私の目線より高かったので、「ああ、もうだめだ。これで死ぬんだな」と思ったら、今までの人生が走馬燈のように浮かんできました。


写真2・やまさきデイサービスホームから見た津波

  ふと我に返ると、周りの人たちは「死ぬぞ!逃げろ」と絶叫していました。私は腰が抜けてしまったような状態で自分の膝を拳で叩きながら、子どもたちと懸命に走りました。後ろから聞こえる津波の轟音と響き渡る悲鳴の中、さらに200mほど上の釜石方面と鵜住居方面に向かう国道45号線と合流するT字路にある石材店の展示場まで逃げました。そこで、「ここまで、波は来ねえぞ」という大人の声がしたので、ふっと息をつきました。あたりを見回すと、避難した皆が道の真ん中であるにも関わらず座り込んでいます。さらには先に道はないものの、山が続いているので、その山まで登っている生徒もいました。

  結局、津波はやまざきデイサービスホームの5メートルほど下で止まりました。少しずつ、生き延びたことを実感しました。しかし目の前には、道路にへたりこみうつむく人々、抱き合って泣きじゃくる生徒たち、唇をかみしめ虚空を見つめる大人たち。山の中からは悲鳴や絶叫が聞こえ、過呼吸やパニックになっている子どもたちを教員が抱きしめて、落ち着かせていました。阿鼻叫喚とはこのような状況のことを言うのでしょう。あの時、“命の際(きわ)”で、私たちはただその現実の中を必死で生きていました。

 

地域のお年寄りの話から、“津波てんでんこ”を学ぶ

その後、どうしたのでしょうか。

齋藤 津波が来たのが午後3時17分、あたりはだんだん暗くなり、雪が降ってきて、寒くなる中に、700人余りが取り残されてしまったのです。たまたま、私たちがいた石材店の展示場の上方を、6日前の3月5日に開通したばかりの釜石側の両石と鵜住居の間を結ぶ三陸自動車道(釜石山田道路)が通っていました。孤立状態で一晩過ごすわけにはいかないので、三陸自動車道に上り、皆で釜石を目指して歩きました。釜石市街に行く途中の両石町は津波で完全に壊滅し、暗闇の中に沈んでいました。子どもたちに絶望的な光景を見せたくなかったので「(下の見える)ガードのそばには寄るなよ」と声をかけながら歩き続けました。そして、途中で通りかかったトラックに乗せてもらい、全員が旧釜石第一中学校の体育館に避難したのです。

全員が逃げることができた理由は何なのでしょうか。

齋藤 一番大きい理由は、圧倒的に海に近いことです。釜石東中学校は鵜住居川が大槌湾に合流するあたりにあり、校庭の向こう側は海です。そんな中で、釜石市の防災・危機管理アドバイザーを務める群馬大学の片田 敏孝教授からは「防災教育をどれだけやっても、やり過ぎはない」と言われ続けてきました。また、生徒たちも目の前が海で、大津波警報が発令されれば、その直後に津波が自分たちに襲いかかってくることを理解しています。ですから、避難訓練の真剣さ度合いが違います。釜石東中学校の防災教育のきっかけは平成18年1月に行われた片田 敏孝教授の津波講演会で、全校の取り組みとして本格的にスタートしたのは平成20年でした。地域のおじいちゃん、おばあちゃんに津波の話を聞きに行ったり、総合的な学習の時間に講師を招いて、1960年のチリ地震津波の経験や1933年の昭和三陸津波、1896年の明治三陸大津波の言い伝えなどを聞きました。そこで、「津波が来たら、“てんでんこ”だ。てんでんばらばらに逃げなければ、ダメだ」という先人から語り継がれた知恵を、自分たちの生活に生かそうということになったのです。

 

訓練での「逃げる」意識の醸成が“てんでんこ”を可能にする

「津波てんでんこ」を広めた津波研究家の故山下文男さんは「点呼などしている場合ではない。ともかく逃げることだ」といっています。


写真3・無事だった家の玄関にぶら下がる安否札

齋藤 津波が来た時に、それぞれがてんでんばらばらに逃げるのであれば、極論すると、避難訓練は必要ないということになるかもしれません。しかし、それでは本当に逃げ切ることはできません。普段から訓練していて、逃げなくてはいけないという意識を強くもっているから、“てんでんこ”ができるのです。3月11日の2日前の3月9日、昼近くに震度5弱の地震がありました。今思えば、大震災の前触れだったのですが、試験監督をやっていて、ぐらっときたので、教室に閉じ込められないために、とっさに窓を開けたら、ほぼ同時に生徒全員が机の下に入っていました。本当にびっくりしました。私が指示を出す前です。「津波の心配はありません」という放送が流れた後、「お前たち、すごいな。避難訓練のたまものだな」といったのですが、教師に言われなくても、それぞれが“てんでんこ”に判断しているのです。

防災教育では、他にどんなことを
やってきたのでしょうか。

齋藤 取り組んできたことはたくさんあるので、今回は代表的なものをひとつ紹介させていただきます。『安否札』配布の取り組みです。『安否札』とは、地震や津波があって避難する際、玄関先に「避難しました」の札を掲げることによって、家に入って確認しなくてもその家庭の安否の状況が分かるという札です。まずはこれを地域に1,000枚配布しました。3年間で3,000枚を配布しようと計画しておりました。実は、中学生が手渡しして歩くことで、地域の防災意識を高めようという大きなねらいもありました。今回、私の家も津波で流されたのですが、私の家より上方の流されなかった家の玄関に、避難先の書いた安否札が下げられていたのです。「生徒たちの取り組みは生きていたのだ」と、思わず涙が出ました。(写真3)

 

様々なアクシデントを盛り込み、各自の判断力を養う

避難訓練はどうでしょうか。

齋藤 中学校単独の場合と鵜住居小学校と一緒にやる場合がありますが、色々と試行錯誤をしてきました。例えばただ避難するだけではなく、訓練の中に様々なアクシデントを盛り込んで、生徒が自分で考え判断して行動できるようにしていました。生徒には言わずに何人か抜いて、点呼時にいないようにして、どうすればいいのかを臨機応変で考えられるようにしました。また、わざとケガ人を作って、保健室に待機させました。そうしたら、普段は綱引きの綱を運んだり整備作業時に使うリヤカーを持ってきて、それに怪我人を乗せて避難しましたし、小学生や病気がちの生徒は背負って逃げました。私たち教師の予想を超える生徒の行動力には、正直いつも驚きと感動を覚えていました。

これから、防災教育はどうされるのでしょうか。

齋藤 現在、釜石中学校に間借りしていますが、釜石港の防潮堤が津波で破壊されてしまったため、もしも津波が来ると、この間借り校舎も危険です。ですので、保護者の方々からは「すぐに避難訓練をしてくれ」と言われて、5月に近くの山に逃げる訓練をしたのです。ところが、生徒たちは3月11日の記憶がフラッシュバックしたのか、無表情になり、言葉を失くしてしまいました。生徒の心情を考慮して、現在は地域に元気と感謝を伝える復興の取り組みを行っています。例えば先日12月11日に行われた釜石第九に参加し、第九をフルコーラスドイツ語で歌ったり、鵜住居町の介護施設を訪問して感謝の歌を披露したり、鵜住居の町に花を植えたりしています。こうして元気と感謝を伝えながら、自分たち自身も元気づけ、また新たに防災教育に取り組んでいく力を蓄えています。

 

生徒たちとつながり、彼らが生きていく道を照らして欲しい

最後に、全国の皆さんへのメッセージをお聞かせ下さい。


写真4・震災から10ヶ月経った現在 未だ瓦礫の中に佇む釜石東中学校

齋藤 私自身が家を流された被災者で、被災者が100人いれば、100人の津波の物語があります。それらの物語のひとつでも多くを、全国の皆さんに伝えたい、聞いていただきたいです。釜石東中学校があった鵜住居町は壊滅して、今も瓦礫が積み上げられている壮絶な状況で、まだ復興の入り口にも立てていないものがたくさんあります(写真4)。生徒は3人に2人が家をなくしました。生徒に「先生、家どうなったんですか」と聞かれて、「なんもねぐなった。でもがんばらなきゃあな」というと、彼らの気持ちが寄ってくるのが分かります。圧倒的なまでの「ない」という現実。それでも生きなければならない。だからこそ、子どもたちをいくらでもできる限り理解し、寄り添って思いや気持ちを共有し、「震災に負けないでいこうな」「できないことより、できることを数えていこう」と励ましていくことが大切だと考えています。

  全国の皆さんには、私たちが直面しているこの現実を細くてもいいので、長く見続けて、忘れないで欲しいのです。被災地で生きていく子どもたちが、被災したために何かができなくなったというようなことがないよう、彼らの生きていく道を照らし導くこと。その光の手を、どうか末永く差し伸べ続けてほしいと願っています。

 

 

齋藤 真


 

岩手県 釜石市立釜石東中学校 生徒指導部長。

1972年宮城県加美郡小野田町に生まれる。宮城県立古川高等学校卒業、岩手県盛岡大学英米文学科卒業。卒業後、岩手県で教員採用試験を受け、中学校英語教師として採用される。大東町立大東中学校に4年、川崎村立川崎中学校に4年、その後現任校の釜石市立釜石東中学校に8年勤務している。2011年3月11日に東日本大震災で被災。現在は、釜石中学校を間借りしての学校生活を、子どもたちと共に送っている。

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